水野信元を見捨て、隠退した久松俊勝と子孫の哀れなその後
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、久松俊勝が頼ってきた水野信元を見捨てていた。その後、俊勝がどうなったのか考えてみよう。
久松俊勝が誕生したのは、大永6年(1526)のことである。本拠は、阿久比城(愛知県阿久比町)である。俊勝が松平広忠と離縁した於大の方と結婚したのは、天文16年(1547)のことである。2人の間には、三男三女がもうけられた。
なお、於大の方の兄が水野信元である。もともと水野氏は今川氏に従っていたが、信元の代に至って織田氏に鞍替えした。俊勝が於大の方を妻に迎えたのは、織田方に与していたことを意味しよう。
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いが勃発すると、今川義元が討たれた。そうした事情もあり、俊勝は徳川家康とともに織田信長に身を投じた。以後、2人は信長に従って、各地を転戦することになった。ところが、ある事件が勃発する。
天正3年(1575)12月、織田家の重臣・佐久間信盛が信元の件で讒言した。讒言の内容は、信元が武田氏と内通し、秋山虎繁が籠る岩村城(岐阜県恵那市)に兵糧を搬入していたなどである。こうして家康は、信長から信元の処分を命じられた。
俊勝は案内役として、信元を大樹寺(愛知県岡崎市)に連行していた。状況を察した信元は、俊勝を頼った。俊勝は妹の於大の方の夫だったので、当然のことだろう。しかし、俊勝は無力で何もできなかった。信元を殺害したのは、平岩親吉である。
信元は、養子の信政ともども殺害された。2人の死を目の当たりにした俊勝は、あまりのことにショックを受けて、その場から出奔したという。そして、そのまま隠退し、天正15年(1587)に没した。於大の方と子らは、家康に引き取られたという。
その後、信元が支配していた所領は、佐久間信盛に与えられた。俊勝の子・信俊は、大坂本願寺との戦争に際して、信盛の配下で戦っていた。しかし、天正5年(1577)、信俊は信盛の讒言により信長からあらぬ疑いを掛けられたので、自害して果てたのである。