「どうする家康」大坂の陣前夜、徳川家康が形成した豊臣包囲網の全貌とは
大河ドラマ「どうする家康」の主人公の徳川家康は、のちに豊臣包囲網を形成した。豊臣包囲網とはどういうものだったのか、詳しく考えてみよう。
関ヶ原合戦後、豊臣系大名が西国に重点的に配置されたが、家康を支持する大名や譜代クラスも西国に配置されていたことに注意すべきだろう。主だった面々は、表の①~④のとおりである。
関ヶ原合戦が終結すると、豊臣恩顧だった池田輝政は、家康に急接近した。慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍に就任すると、輝政は少将に昇進した。これは、なかなかの厚遇ぶりである。輝政の妻は、家康の娘の督姫だった。
慶長14年(1609)、西国で大型船の使用が禁止されたにもかかわらず、輝政は対象から外された。慶長17年(1612)、輝政は家康から松平姓を授与されたので、優遇されたのは明らかである。輝政は、家康派の有力な外様大名だったのである。
戸田一西(かずあき)は、三河出身の家康譜代の家臣である。井伊直政は「井伊の赤備え」で知られ、家康の重臣「徳川四天王」の一人だった。内藤信成は家康の異母弟にあたり、早くから家臣として従っていた。
数はそう多くないかもしれないが、家康は有力な外様大名や譜代の家臣を西国に配置し、着々と西国方面に豊臣方の包囲網を形成した。その後も家康は、西国方面に大坂の豊臣家を意識した大名配置を行ったのである。
家康は息のかかった大名を積極的に西国方面に配置することで、大坂城の秀頼を牽制した。これこそが豊臣包囲網なのだが、続けて表の⑤~⑥の大名を紹介しよう。
松平定勝は家康の異父弟で、家康譜代の家臣だった。松平忠明は奥平信昌の四男だったが、のちに家康の養子になった。その後、秀忠から「忠」の字を拝領し、忠明と名乗ったのである。
定勝も忠明も、松平姓を名乗る有力な家臣である。岡部長盛は外様大名だったが、小牧・長久手の戦い以来、家康に仕えていた信の厚い人物だった。
家康は有力大名を西国の要所に配置すると、丹波亀山城(京都府亀岡市)などを天下普請(諸大名を動員して築城すること)で修築した。天下普請には、築城の名手で家康の信頼が厚い藤堂高虎が関わった。
慶長15年(1610)に名古屋城の築城が天下普請で開始されると、西国・中部方面の大名が動員され、それは史上最大規模となった。家康が西国方面へ新たに大名を配置したり、城郭の新改築をしたりしたことは、豊臣方にとって大きな脅威となったのである。