【米の自給】手段を目的にしたら最高の贅沢になった話
自然栽培のお米栽培は『仕事』にならない
無農薬無施肥で育てた今年の新米を食べました。
味は、普通。
味だけで言えば、やはり実家魚沼のコシヒカリは抜群に美味い。
無農薬無施肥、いわゆる自然栽培のお米も買おうと思えば買えます。
(来期分で1キロ1,000円のお値段で50kg予約しました。)
今回は豊作で収量はおそらく玄米換算150kgくらい。(ちなみに田んぼの面積は約600平方メートル)
1キロ1,000円という高級価格で換算しても15万円。
通常のルートに出荷でもしようもんなら、いろんなコメが混じってたり品質不揃いの為、最低価格にすらならないかもしれない。
はっきり言って、『仕事』にならない。生産効率が悪すぎる。
これはずーっとわかっててやってきたこと。
それでも毎年続けながら、なんでやり続けてるのかを考えてました。
それが、ようやくわかった…というか気付きました。
シンプルに『やりたい』
私にとって自然農や自然栽培での農作物栽培は『手段』じゃなくて『目的そのもの』でした。
仕事というのは、現代では生活に必要なお金を稼ぐための手段。
だから、手段だと見なしているうちは
『なんでこんなにも非効率なお金にもならないことをやっているのか?』
という気持ちが湧いてきます。特に夏場。
でも、
自分で育てた物を食べたい。
自分の育てた農作物を食べてもらいたい。
これが目的になると、その過程も目的の一部になる。
だから、お金になるかならないかは関係なくなる。
お金で買った方が楽だし、安く済むことを敢えてやってみて実現させる。
そして、それが年々上達していく。
手段が目的になった途端、
『お金にならない非効率なこと』は『最高の贅沢』に変わりました。
味は普通だけど、食べた時の達成感、充実感は買ってきたものでは味わえない特別な味です。
これは飽食の時代にやるからこそ贅沢なことなんじゃないかと思います。