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母の日にデビュー12年を経た「ありがとう」。東京女子流の手紙から生まれた歌にこめられた秘話

斉藤貴志芸能ライター/編集者
(左から)山邊未夢、新井ひとみ、中江友梨、庄司芽生(エイベックス提供)

母の日を前に「ありがとう」の想いを込めたメッセージソング『Dear mama』を東京女子流がリリースした。4人のメンバーが母親に宛てた手紙を元に作られた1曲。ローティーンでデビューして12周年を迎える彼女たちが今、幼い頃から自身を支えてくれた感謝を噛みしめて歌い上げている。親元を離れて時には涙しながら活動してきた心情も垣間見える1曲となった。

書き始めたら伝えたいことが溢れて

――例年、母の日にしていることはありますか?

山邊未夢 普段からお母さんが「こんなの欲しい」と言っているのを聞いておいて、去年はトゥルースリーパーの枕をプレゼントしました。「肩凝りも和らいだ」とすごく喜んでくれました。

中江友梨 私も去年は、枕をワンちゃんのぬいぐるみとセットで贈りました。愛犬が亡くなってしまったので、そっくりなぬいぐるみを探して、大きさも同じくらいな子を見つけたんです。実家に帰ったとき、お母さんが横に置いて寝てました(笑)。

新井ひとみ 実家から通っていた頃は、カーネーションを買ってました。去年は『おかあさん なあに』の歌のポストカードを見つけて、メッセージを書いて送りました。

庄司芽生 私の母は同じものを長年愛用しているので、去年、新しいヘアブラシを送りました。梳かすと髪がサラサラになるのを選んで。あと、定期的に荷物を送るとき、自分を撮ったチェキにひと言メッセージを書いて、入れていたりもしています。

――今回のように、お母さんに手紙を書いたことは?

中江 ちょっとしたメッセージカードくらいならありますけど、あんなにガッツリ長文の手紙は生まれて初めてでした。

新井 1/2成人式とか学校の行事以来で、すごく久しぶりでした。

――書きたいことは溢れた感じですか?

新井 いろいろ思い出しながら「これも書きたい。あれも書きたい。それは書いておかないと」って、止まらなくなりました。時間がかかりそうだったので、最後は「あとは会って話すね」と(笑)。

中江 みんな、便せん3枚目に突入しましたから。

山邊 私は一緒に住んでいるので、1枚くらいしか書くことはないかと思っていたら、意外と伝えたいことがあって。気づくと3枚も書いていて、自分でビックリしました。

――芽生さんは4枚まで行って、一番長い手紙になりました。

庄司 2年くらい直接話せていないので、「何から書こう? どれを伝えよう?」とブワーッと出てきて。書いては消す繰り返しで、うまくまとまらなくて、すごく時間がかかりました。

レッスン中にお母さんのことを想って涙が出て

――未夢さん以外は高校進学のタイミングで上京してきたんですよね。『Dear mama』にもありますが、地元を出てきた日のことも思い出しました?

中江 中学までは週末だけ東京に行って地元に帰ってきたので、家を出た日も実感が湧かなくて。「行ってきます」と言いながら、またすぐ帰ってくる気分で、意外とケロッとしていました。それで東京でお仕事をしたあと、「あっ、帰らないんだ。そう決めたんだ」と気づいて、寂しくなったのを思い出しました。

新井 上京して最初は寂しかったので、お母さんが1ヵ月に1回くらい来てくれました。でも、リハーサルやレッスンが毎日入っていて、会えるのは夜だけ。朝バイバイするのが辛くて、レッスン中に「帰ったら、お母さんはもういないんだ」と思い出して、泣いてしまったことがありました(笑)。

中江 あったね。

山邊 ひとみが突然、涙をポロポロと(笑)。

庄司 私はオーディションに受かって、母と「どうしよう?」と話したときも思い出しました。「一度挑戦するのもいいかな」と応募したので、まさか受かると思ってなくて。自分から前に出るタイプでないし、ダンスしかやってなかったから「私に歌なんかできるの?」と迷ったんです。でも、母が「芽生のやりたいことを応援する」と背中を押してくれて、以来ずっと、誰よりも寄り添って支えてくれました。

庄司芽生(しょうじ・めい) 1997年7月2日生まれ、山形県出身
庄司芽生(しょうじ・めい) 1997年7月2日生まれ、山形県出身

気が緩むのが怖くて実家に帰りませんでした

――ひとみさんは手紙の中で「毎日のように電話してたよね」とありましたが、いつまで続けていたんですか?

新井 高校生の間は毎日電話していました。

中江 急に電話の回数が減った時期があったね。ひとみのお母さんから私のお母さんに電話が来て、「最近ひとみの電話が少なくて心配」と話してました(笑)。

新井 電話をすると、かえって寂しくなることに気づいたんです。大学生になって、お母さんもきっと家事や弟の面倒で忙しいと思って、時間があるときに電話するようになりました。

――芽生さんが「実家に帰ると何かが崩れてしまいそうで」と書いていたのは、張り詰めた気持ちで活動していた裏返しですか?

庄司 女子流で頑張ると決めていたので、実家に帰って気が緩んでしまうのが怖かったんです。だから、山形でライブがあった日もホテルに泊まり、帰らない選択をしました。自分の弱さを見せないで、「東京で頑張っているよ」と家族を安心させたい気持ちも大きくて。でも、今後は会えるときは会って、想いは素直に言葉にして伝えたほうがいいと、この曲を通じて気づきました。

――友梨さんは「昔からやると決めたら突っ走ってしまうワガママ娘でごめんね」とありましたが、どんなことで突っ走っていたんですか?

中江 6歳上の兄がいて、習いごとでも何でも、すぐマネしたがったんです。小さいことだと、兄はジャングルジムをてっぺんまで昇れたんですね。私は1段昇るのもやっとで、母に「体の大きさが違うでしょう」と言われながら、てっぺんまで行こうとして、案の定、落っこちてケガをしました(笑)。スリ傷程度で済んで良かったです。でも、お母さんは注意しながらも、私が「やりたい」と言えば止められたことはありませんでした。「失敗したら帰ってきなさい」と、甘やかしてもらったと思います。

中江友梨(なかえ・ゆり) 1997年6月28日生まれ、大阪府出身
中江友梨(なかえ・ゆり) 1997年6月28日生まれ、大阪府出身

食べても太らない体に生んでくれて感謝(笑)

――未夢さんは「けんかも今でもするよね(笑)」と書いていますが、けんかの原因はどんなことですか?

山邊 毎日一緒にいて、お互い我が強いので、私が「うるさいな」と言っちゃうと、お母さんも火がついて「はぁ?」となるんです(笑)。何回も同じ話をしてくるから無視していたら「聞いてる?」となったり。そういう言い争いはよくありますけど、何10分か後には普通に「お昼は何を食べる?」となります(笑)。

新井 未夢とお母さんは友だちみたいだよね。

――あと、未夢さんの手紙で面白かったのは「好きなものをいくらでも食べても太らない体で生んでくれて有難う」という(笑)。

山邊 両親ともスマートで、食に関しては「お腹いっぱい」と言っても「もっと食べなさい」と言ってくるんです(笑)。でも最近、太るのを気にせず食べられるのは最高に幸せだなと思って、休日はずっとバイキングに行ってます。

――それでそんなにスマートなら、幸せすぎます。

中江 遺伝が羨ましい(笑)。

――ツイッターで、お店の人に「こんなに食べる人は初めて見ました」と言われた話も上げてましたが、何をどれくらい食べたんですか?

山邊 アウトバック(ステーキ店)で、無料のパンを家族で20回くらいおかわりしたかな(笑)。「またですか?」と言われて、普通の人はどれくらい食べるのか聞いたら、2本くらいということで、逆にビックリしました(笑)。あそこでしか食べられないし、私はステーキよりパンメインで、バターをたっぷり塗って食べてました。

――未夢さんは千葉から通えるとはいえ、東京に住んだほうが便利とは思いませんでした?

山邊 寮生活をしていた時期もあって、1人で暮らすのはイヤではないです。でも、愛犬が2匹いるので出られないですね(笑)。

山邊未夢(やまべ・みゆ) 1996年6月24日生まれ、千葉県出身
山邊未夢(やまべ・みゆ) 1996年6月24日生まれ、千葉県出身

新幹線で別れるときが思い浮かんで泣きました

――自分たちの手紙を元に作られた『Dear mama』は、歌に気持ちがよりこもりますか?

中江 レコーディングでは逆に、ちょっと苦戦しました。自分で書いた内容も入っている分、歌の中でも素直になれなくて。お母さんが前にいるイメージで、こういうことを言うのは恥ずかしいじゃないですか(笑)。でも、だんだん緊張も解れて、改めて「お母さんに伝えたい」と思って。口では言えない性格だから、歌で気持ちを届けようと決意したら、感情がスッと入りました。

新井 私は手紙を書いていたときも、お母さんのことを思い浮かべて泣いてしまったんです(笑)。取材でも歌詞を見ていたら涙が溢れたくらい、心に刺さる楽曲です。レコーディングではカッチリ歌うというより、「ねぇママ」と話し掛ける感じでした。

――レコーディングでも涙を流していたんですか?

新井 やっぱり1番、2番のAメロで、新幹線での別れ際が思い浮かんで寂しくなりました。この年始に久しぶりに実家に帰れて、思い出を家族と作って、東京に戻る日は朝も家で泣いたし、駅への車の中でも泣きました。見つからないように涙を拭いて、ホームでバイバイして、ドアがシューッと閉まったとき、お母さんが最後の最後まで見送ってくれたあと、目に手をやって涙をぬぐっていたんですね。それがそのまま歌詞に入っていたので、思い出すことはたくさんありました。

庄司 私がレコーディングしたときは、ひとみと友梨の声がもう入っている状態でした。みんなの想いが詰まった手紙からの歌詞で、歌声から感情を受け取って、バトンを繋げられたと思いました。いつもは歌の主人公の気持ちをそれぞれ考えるところを、今回は自分たち自身が軸になっていて。一緒に12年を過ごして、同じように上京した仲だからこそ、気持ちを共有できました。

山邊 最近の曲では、エモいニュアンスの歌い方が多かったんですけど、今回は実際にママと話しているようにしたくて。久しぶりにちょっとかわいい感じで歌ったりもしました。

新井ひとみ(あらい・ひとみ) 1998年4月10日生まれ、宮城県出身
新井ひとみ(あらい・ひとみ) 1998年4月10日生まれ、宮城県出身

良いときも悪いときもあってひとつの物語に

――この曲はハモリやコーラスも印象的です。

中江 イントロやアウトロでみんなでコーラスをして、ハモやフェイクも入れています。

新井 アウトロのあんなに長いフェイクは初めてかもしれません。

中江 あそこでみんなの気持ちがグッときて、壮大なフィナーレになりました。幸せな気持ちや愛情が溢れ出しているので、聴いてくださる方の家族や愛する人への想いも生まれてくれたらいいなと思います。

新井 最後のシンガロングは壮大でもあるし、私のイメージでは風船がファン、ファン、ファンと上がっています。

庄司 結婚式みたい(笑)。

新井 本当に結婚式で「お母さんにこの曲を贈ります」と流してもらってもいいですよね。

――確かに合いそう。

中江 今の私たちだから、こういう感情になれて、想いの伝わる楽曲になったと思います。幼い頃もお母さんへの想いはありましけど、女子流になってからの思い出は波のようだったので。良いときもあれば悪いときもあって、だからこそ、ひとつのストーリーが出来上がって、濃い歌になりました。

12年間の送り迎えに愛を感じます

――改めて、それぞれお母さんから歌詞にある<おっきな愛>を感じたのは、どんなときですか?

新井 お母さんが東京に来てくれたとき、帰らないといけない日は決まっていたと思うんです。仕事も家事もあるので。でも、私が寂しくて帰ってほしくなくて、仮病を使っちゃったことがあったんですね。そのとき、私を心配して、ちょっと長く東京にいてくれて、大きな愛で支えてくれているのを感じました。仮病だったことは、いまだに話していないんですけど(笑)。

庄司 女子流に入る前、私は習いごとをほぼ毎日やっていて、母が車で送ってくれて終わるまで待って、お迎えもしてくれていました。母は仕事をしていて朝から晩まで働いて、しかも朝は早起きして、私と弟のお弁当も作ってくれていたんです。そのうえで、私の送り迎えもしてくれて。自分の時間を犠牲にしてまで注いでくれた愛情には、感謝しないといけないと思います。おかげでダンスに出会えて、女子流に入るきっかけになりましたから。

山邊 私のお母さんも、女子流になってから、最寄り駅まで毎日送り迎えしてくれています。どんなに朝早くても、夜遅くても。始発で行くときは「眠い」と言いながら運転してくれて、終電で帰るときは何時になるかわからないまま、起きて待っていてくれて。1日なら小さいことかもしれませんけど、12年間なので、その積み重ねに愛をすごく感じます。

中江 お母さんって、嫌われ役をするときもあるんですよね。私もお母さんによく怒られました。一番痛い言い方で、一番刺さってしまって。普通なら、そんなこと言わないじゃないですか。誰でも人から嫌われてたくないし、まして自分の娘に「嫌い」とか言われたら、めっちゃショックだと思います。私も「うるさい!」とか「お母さんにはわからないよ!」と言っていました。相当傷つけたかもしれませんけど、めげずに言ってくれる強さはすごいなと思います。

――手紙にも「怒るのも体力がいるのは大人になってからわかったよ」とありました。

中江 本当は怒りたくないですよね。でも、私がどんな状態になっても最後まで味方でいようとして、何度でも向かってきてくれる。それは大きな愛ですよね。

こんなに長く続けてきたのは誇りです

――12周年ライブも近づいてきましたが、毎年この時期になると、デビューした頃を思い出しますか?

新井 思い出します。12年前、みんなで出会って、何が起きるのか全然わかってなくて。私は歌は好きでしたけど、ダンスはちゃんとやったことがなかったので、覚えるのに苦労しました。最初に振り入れしたときのことを、メンバーと話したりもします。

山邊 同じことを12年も続けるとは考えていなかったし、私はきっとすぐ辞めてしまうと思っていました。こんなに長く続けたいと思えるものに出会えたことは、すごく幸せだなと毎年実感します。これを誇りに、さらに頑張ろうと強く思います。

――今はアイドルイベントに出ると、お姉さんの立場なことが多いのでは?

庄司 そうなってきました。

中江 ビックリです。でも、私たちより年下でも、しっかりした方が多くて。女子流は人見知りで、この年齢になってやっと、ちょっと話せるようになりました(笑)。

――「昔から見てました」と言われることもあったり?

新井 最近、アプガ(アップアップガールズ(仮))さんの方に「『We Will Win!(-ココロのバトンでポ・ポンのポ~ン☆-)』から聴いてました」と言われました。

山邊 11年前の曲だ。

新井 私たちも小さかったけど、もっと小さい頃から聴いていただいて。これだけ続けてきたからこそ、そう言ってもらえる機会もあったのが嬉しかったです。

――LINE CUBE SHIBUYAでの12周年ライブは、盛りだくさんになりそうですね。

庄司 12年間の曲をできるだけ多く歌いたいけど、時間が限られているので、どう詰め込むか。みんなで話し合って固めていきました。どの時代に私たちと出会った方でも楽しめますし、初めての方もいろいろな曲を一気に聴いて、女子流を知ってもらえると思います。

*写真はエイベックス提供(衣装協力/HAENGNAE)

東京女子流

2010年1月1日に結成。同年5月にデビューシングル『キラリ☆』を発売。2012年12月には初の日本武道館公演を開催。当時平均年齢15歳で、女性グループの最年少記録だった。台湾や香港など海外各地でのライブも重ねた。

公式HP

『Dear mama』

配信中

『東京女子流 12th Anniversary Live *物語の1ページ*』

5月4日/LINE CUBE SHIBUYA

芸能ライター/編集者

埼玉県朝霞市出身。オリコンで雑誌『weekly oricon』、『月刊De-view』編集部などを経てフリーライター&編集者に。女優、アイドル、声優のインタビューや評論をエンタメサイトや雑誌で執筆中。監修本に『アイドル冬の時代 今こそ振り返るその光と影』『女性声優アーティストディスクガイド』(シンコーミュージック刊)など。取材・執筆の『井上喜久子17才です「おいおい!」』、『勝平大百科 50キャラで見る僕の声優史』、『90歳現役声優 元気をつくる「声」の話』(イマジカインフォス刊)が発売中。

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