樋口尚文の千夜千本 第85夜「東京ウィンドオーケストラ」(坂下雄一郎監督)
仏頂面のヒロインがいつしか癖になる
坂下雄一郎監督は、東京藝術大学大学院在学中に撮った『神奈川芸術大学映像学科研究室』を観て、その物語やショットの切り詰め方、演技者の選択などなど全ての要素に鋭角的なものを感じた。それはしかも、若手ならではのフレッシュな張りつめた感じというよりも、なんというかいちいちが「的確」で狙いすました感じであって、そこがまた独特であった。たまさか私の監督した映画とともに台北電影節に招待されていたので、いよいよこの監督は何者なんだろうという興味をそそられた。
そんな坂下監督の商業映画デビュー作を、よもや『恋人たち』で熱烈な評価を集めた松竹ブロードキャステイングの深田誠剛プロデューサーが準備しているとは知らず、これもまた驚きだった。しかしあの冷たくドライな『神奈川芸術大学映像学科研究室』の監督と、尖鋭な人間描写に貫かれた『恋人たち』のプロデューサーが組むと、いったいどんな異色のアート作品が生まれるのだろうかと思いきや、これがけっこう間口の広いほのぼのとした(!)喜劇であったことがまた意外であった。
『東京ウィンドオーケストラ』は、そういうわけで『神奈川芸術大学映像学科研究室』のシャープさとは裏腹に、ほとんど牧歌的なのんきさから始まる。屋久島の役場のお人よしな職員(小市慢太郎が好演)は、あこがれの楽団「東京ウィンドオーケストラ」を島に招いてコンサートを開く、という企画を何度も提出して、ついにそれが陽の目を見つつある。その楽団を呼ぶ実務を担当していた若い女性の職員(中西美帆)は、屋久島の港まで一行を出迎えに行くが、そこに到着したのは、実績も何もない「東京ウインドオーケストラ」という無名の冴えないサークルのメンバーだった。
本作はごくシンプルで、以後はこのとんでもない勘違いが市役所のみんなにいつバレるのか、というハラハラをもって物語は動き出し、その後はバレるかどうかよりももっと大事なことがあるのでは、という転回を迎える。こういう物語が面白く観られるか否かはひとえにどういうキャスティングをして、どういうあんばいの演技を頼むかによるだろう。その点、ワークショップによる新人発掘をかねて製作されてきた深田プロデューサーの作品であることが奏功して、本作もそんなに面が割れていない中堅から若手、素人まで、個性的な演技者たちがだめなオーケストラのメンバーとして採用されており、これがもし顔を観ただけでどんな役まわりか想像できてしまうような有名俳優に占められていたら、このフレッシュな笑いやペーソスには結びつかなかっただろう。
そしてヒロインを演じた中西美帆はこれが初主演作ながら、小細工しない素材感に好感が持てる。特に彼女が、徹頭徹尾つまらなさそうな顔をしているのが凄くいい。同時に公開された映画『惑う After the Rain』でも主演している中西はごく快活なノーマルな演技だったので、別にこんなニヒルな表情を看板にしているわけではなく、あくまで『東京ウィンドオーケストラ』仕様の雰囲気なのだった。この自分の置かれている状況について極めてダルな心境にある市役所勤めの女子が、ちょっとした非日常的な騒動に巻き込まれてじたばたするうちに、違う自分を見つけて新たな生き方に目覚めた・・みたいな成長譚になっていたらサイアクだなと不安視していたら、事件の前後で中西美帆の進境まるで著しくないところがよかった。ほんのわずか気持ちのマチは出来たかもしれないが、まるで進歩なくつまらなさそうである。
特筆すべき成長もないヒロインがずっと仏頂面していたり、スター不在の個性的な俳優たち(そこには元松竹の宣伝部のOBの顔も!)がずっと心もとなく画面を徘徊していたり・・というのは、なかなか昨今の商業映画にあっては難しいことなのだ。だから、本作のように松竹映画のDNAを汲みながら、そういった読めない面白さを打ち出そうとしている深田プロデューサーの功績がまず大きいのと、その裏付けを得て坂下監督が前作のクールさ、尖鋭さにおさまらない(思いがけない)鷹揚さを発揮しているところが新鮮でもあった。
ちなみに深田プロデューサーはこの後の待機作として、なんとあの韓流ドラマ『冬のソナタ』のユン・ソクホ監督の初監督映画『心に吹く風』を北海道・美瑛で撮りあげており、これもまたなかなか派手な商業ベースでは実現が難しそうな小味で可憐な作品である。