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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦の軍勢配置図を見たメッケル少佐が「西軍の勝ち」と言ったのは真っ赤な嘘

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原合戦の勝敗は、軍勢配置で決まったのだろうか?(写真:peisama/イメージマート)

 ネット時代になり、さまざまなデマが飛び交うようになった。ところで、関ヶ原合戦の軍勢配置図を見たメッケル少佐が「西軍の勝ち」と言ったのは真っ赤な嘘というのはご存じだろうか。

■メッケル少佐の逸話

 典拠不明ながら、関ヶ原合戦の勝敗については有名なエピソードがある。明治18年(1885)、ドイツから陸軍大学校の教官として、クレメンス・メッケル少佐が来日した。

 メッケルは関ヶ原合戦の軍勢配置図を見て、即座に「西軍が勝利した」と述べたという。その理由は、西軍が小高い山々を利用して敵の東軍を誘い込み、包囲して攻撃することが可能であったからであるという。

 実は、この逸話はまったく根拠がなく、現在ではフィクションであることが明らかにされ、完全に否定されている(白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社)。

■勝敗の決定打は調略戦

 勝敗の帰趨は、水面下における政治的な駆け引きによって、ほぼ決まっていたといっても良い。徳川家康は黒田長政らを用いて、西軍諸将を寝返らせるよう調略戦を行っていた。

 たとえば、西軍がもっとも頼りにし、本来の総大将格である毛利輝元は、合戦の前日に徳川家康と和睦を結んでおり、合戦の当日、毛利氏の軍勢は少しも動くことがなかった。

 西軍の勝敗の帰趨を握る松尾山に陣取った小早川秀秋は、輝元と同じく、事前に家康に内応することを約束していた。

 戦力として期待していた島津氏もついに動くことなく、西軍の敗勢が濃くなるや否や、ただちに本国・薩摩へと落ち延びた。

 このような体たらくでは、勝てる戦いも勝てない訳である。仮に、いくら陣形が良くても、多数派工作に成功した東軍の軍勢に勝てるはずがなかったのだ。

■陣形や軍勢配置の問題

 近年、陣形や軍勢配置の問題が話題になっているが、一次史料で正確にそれらを明らかにするのは難しい。

 陣形や軍勢配置は、二次史料や後世に成った覚書、奉公書などを頼るしかないが、それでもなお困難な作業である。

 現在のように「○○町一丁目」といった、詳しい住所表記があるわけではない。仮に「○○」という地名の表記でも、実に範囲が広く正確に位置を確認するのは難しい。

 しかも軍勢は少しずつ移動している可能性もあるので、それを合戦当日のピンポイントで確定するのはいささか困難だろう。

 二次史料は置くとしても、出陣した当人が書いた覚書、奉公書でさえも、記憶違いなどの可能性があるので、全面的に信を置くことができるのか疑問である。

 戦国時代の戦争で重要なのは調略による多数派工作であり、陣形や軍勢配置による有利不利は証明し難いのである。

■まとめ

 関ヶ原合戦だけではなく、有名な桶狭間の戦いや長篠の戦いも含めて、合戦そのものの経過を信頼できる史料で追うことは困難である。ましてや、陣形を確認することは難しい。

 実際には、兵力差、当日の天候などの諸条件があるものの、合戦に至るまでの多数派工作が大きくものを言ったのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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