[訃報]現代音楽的視点でビバップやファンクを再構築したオーネット・コールマンさん逝去
フリージャズのオリジネーターとして多大な功績を残し、エレクトリック・サウンドが主流になるなかでは商業主義とは一線を画したアプローチによってアイデンティティの発露を追求し続けた、20世紀ジャズのジャイアンツのひとりであるオーネット・コールマンさんが亡くなった。享年85歳。
フリージャズの代名詞としてジャズの歴史にその名が刻まれているのがオーネット・コールマンーーという認識が一般的だと思う。しかし今日は、彼を偲んで「オーネット・コールマンはフリージャズをめざしていたわけではなかった」という逆説的な結論から演繹的に彼の業績を見直してみたいと思う。
ジャズが対応せざるをえなかった20世紀半ばのフリー的状況
ポピュラー音楽を軸に演出的にも理論的にも発展してきたジャズにとって、“型を外す/型を無くす”音楽は本来は排除されるべきものだったはずだ。
ところが、時代の趨勢で20世紀半ばにはそれが無視できない存在として台頭してくることになる。こうした状況にジャズが表立って反応したのは、レイス・ミュージックの冠たる意地と、柔軟な(あるいは本来の雑食的な)素質があったことが原因に違いない。
“型を外す/型を無くす”音楽の影響が色濃くなってきた1950年代後半、現代音楽で試みられてきたアプローチをジャズでも応用しようという動きが盛んになってくると、誰がそれを率先して実行できるかという人材探しが始まった。というのも、現代音楽に特徴的なコンセプチュアルなアプローチは、現場主義でアドリブという偶発的なアプローチを優先する1950年までのジャズ・シーンとは対立するものだったので、いわゆる“ジャズ畑”で実績のある人材では対応が難しそうだったからだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、ロサンゼルスでユニークな作品を発表していたオーネット・コールマンだった。彼がリリースした『Someting Else !!!!』(1958年)や『Tomorrow is the Question !』(1959年)を聴いて「コイツならなにかやってくれそうだ!」と感じたギョーカイの人たちは、彼の大手レコード会社からのデビューをお膳立てし、次々と意欲的な作品を発表していった。そのなかに『Free Jazz』という象徴的なタイトルを含めていたことからも、ギョーカイがどれだけオーネット・コールマンの才能(と外連味)に期待していたかがわかるだろう。
ギョーカイがオーネット・コールマンのどこを評価したのかといえば、既成のジャズとは異なる理論に基づいた音楽を、再現性のあるカタチで作ることができる点にあったと推察する。
重要なのはアドリブできる演奏能力ではなく、作曲家になれるかどうか、ということだ。
受け入れられたとは言えないオーネット・コールマン的フリー・アプローチ
オーネット・コールマンが編み出したとされる音楽理論がある。“ハーモロディック理論”と呼ばれるそれは、ほかのコンセプチュアル・アートと同様に内容や方法論のすべてが透明化されていないために、当初は理論として認めないという意見も多かった。
コンセプチュアルであるよりもインプロヴィゼーショナルであることを評価するジャズ・シーンの逆風も受けて、1960年代をジャズ作曲家として活動しようとしたオーネット・コールマンの収支は、必ずしも成功したとは言えなかった。70年代に入り、彼はそのコンセプションを具現するプライムタイムというエレクトリック編成のバンドを結成し、理論と実践の溝を埋めていくことに注力するようになる。60年代を席巻したインプロ派のフリージャズが一挙に衰退する状況を傍観するように彼が活動を活性化させたことは興味深い。
このようにオーネット・コールマンの業績を追っていくと、フリージャズの旗頭として登場したにもかかわらず、ジャズ史で定義されるフリージャズとは根本的に異なるアプローチの活動に終始していたように見える。それゆえに、「フリージャズをめざしていたわけではなかった」と結論付けてみたわけだ。
そしてまた、決して無手勝流の“型破り”なジャズ・ミュージシャンでもなく、余人の理解という妥協点すら許さない厳しい独自理論を展開しながら、自己表現の可能性という意味での“型を求め続けた人”だったという評を付して、彼の冥福を祈りたい。
♪Ornette Coleman- Dancing In Your Head (live)
1986年に東京・よみうりランドEASTで行なわれたオーネット・コールマン&プライムタイムのステージ。ボクも客席で聴いていたけれど、とにかく音がデカいという印象だけが残っている(笑)。いま聴くと、ファンクからアイテムを抽出してフィーリングを除いてからアイテムをバラバラにコラージュしているように感じるのだが……。