「ダメになっても乗り越えられなくてもいい」。ひきこもりだった元俳優の男性が社労士事務所を開業するまで
出口のない円柱形の牢獄にいるようだった
俳優で劇作家だった男性が、体調を崩してひきこもり状態になり、自殺未遂を繰り返すようになった。しかし、障害者雇用で就いた職場の社会保険業務に国家資格があることを知り、勉強して社労士試験に合格。自らも障害年金の受給を受けていた当事者の経験を生かし、2022年9月に「本人の気持ちがわかる」社労士として、障害年金の申請などの相談にのる事務所を開業した。
日本でこんなにも数多くの人たちが「ひきこもり」や「生きづらさ」の状況に至る背景には、学校や職場、家庭でも、失敗や間違い、ミスが許されず、詰問され、異なる意見を認め合えずに排除されるといった人権侵害が横行している社会の実態がある。
「私がひきこもりだった頃も、出口のない円柱形の牢獄にいるようだった」と明かす男性。しかし、今振り返れば、「身動きがとれず匍匐前進がやっとであっても、到達した壁面をぐっと押す力と直観に身を委ねる意思さえあれば、壁面はカギのかかっていない扉のように自然と開き、先に進むことができた」と話している。
他人の気持ちはわかっても、自分の気持ちが全くわからない
社労士事務所を開業したのは、東京都葛飾区の岩﨑裕司さん(48歳)。これまでの様々な異変の起因は、子どもの頃からの母親の不安定な精神状態と父親をはじめとした他の家族の無関心にあったという。
小学校2年の時、家族会議中に母親がいなくなり、自室から飛び降りようとした。そのとき、岩﨑さんは母親を後ろから羽交い絞めにして止め、舌を噛もうとした母親の口の中に手を突っ込んだ。母親は毎日、「自分の味方をしない」父親に怒り、「敵」である同居の祖母を殺そうと包丁で追い回していた。そのため岩﨑さんがいつも母親のカウンセラーのような対応を迫られていた。
母親は3階建ての自宅の3階を占拠して、ひとりで暮らしていた。1階が店舗だったため、兄と父と祖母は2階で生活。岩﨑さんには、部屋はあてがわれず、中学生の頃から20歳になって家を出ていくまでの間、2階の廊下にベニヤ板を立てかけた3畳ほどの空間に、ずっと住まざるを得なかった。
「手を広げられず、廊下を歩く家族の足音が耳に響くため、上手く眠ることができませんでした。自分には安心できる居場所がなかったです」
学校は、高校2年生の頃から不登校になった。しかし、副担任の教師に「俺が必ず進級させてやるから、いくらでも休め」と言われたことがきっかけで、留年ギリギリのタイミングだったが、再登校できるようになった。
「副担任の言葉には、すごく安心しました。自分のことを見ていてくれたんだと」
大学時代は、劇団青年団に入って演劇に没頭。タレント事務所にも所属した。
しかし、27歳の時、劇作を始めたことがきっかけで、ジェンダーなど自分の中を深く掘り下げる作品ばかり創るようになり、苦しくなってしまった。
「これまで家族の調整役ばかりやってきたから、他人の気持ちはわかっても、自分の気持ちが全くわからない。自分という人間がただの空洞なんだって自分にばれちゃったんですね」
この頃から、岩﨑さんの体調は急激に悪化。オーバードーズで救急車に運ばれ、向精神薬の過剰摂取も日常化。首吊り用の縄を壁に設置しながら劇作や俳優活動を続けていた。やがて精神不安定から劇団も解雇され、自殺未遂も頻発するようになり、何もできなくなって、より深くひきこもった。
ここから出られるなら、どこでもよかった
社会との接点は、オーディションだけだった。しかし、オーディションに呼ばれても行けなくなり、夕方になっても起きれなくなってしまう。こうして、33歳の時、唯一の社会とのつながりだったタレント事務所も解雇された。
朝、ブルーシートを敷いて、ロープに首をかけて立つ。不安定な椅子に乗ってベルトで吊ってみたら、意識がなくなったものの、バックルが外れて生きていた。玄関扉の前には、「中で自殺しています。警察を呼んでください」の立札を立てながら、朝まで続ける。毎日、そんな日々が続いた。
38歳の時、いよいよ自分ひとりではダメだと思って、父親に入院したいと相談。精神病院に連れて行ってもらった。父親は店を開けるからと、病院までは送ってくれたものの、すぐに帰っていった。ひとりで受診したものの「なんの問題もない」と薬も処方されず帰された。
再び医療につながったのはそれから数年後。軽犯罪で逮捕されたことがきっかけだった。「警察が間に入ってくれて救われました。ここから出られるなら、死でも刑務所でも病院でもどこでもよかったんです。ただ、ようやく父親が関心を示して本気で病院を探してくれました。母親や兄は変わらず無関心でしたが」
病院には3年くらい通った。併設のデイケアに行くと、自分と同じように首吊り用の縄を部屋に隠し持っている心理士がいて、気持ちを分かち合えたのが救いになった。
そんなしんどい日々が解消される転機になったのは、紹介されて通い始めた足立区にある「コレカラ堂」という就労継続支援B型施設だ。
「施設長の雰囲気が明るく、自由に過ごせて居心地が良かったんです」
施設には当初、午前中だけ通所。少しずつ週に5日通所できるようになった。
「常働習慣を付ける」というのが支援計画の骨子だった。現在の妻ともこの施設で出会った。
こうして40歳の時、障害者雇用で特例子会社に初めて就職した。しかし、会社の最初の説明会で、指導員からこう言われた。
「注意して3回目には怒鳴ります!」
実際、指導員はいつも怒鳴っていた。
ところが9か月後、社会保険業務に配属され、社労士という国家資格に出会う。
「元々、社労士になろうと思っていたわけではなく、元の部署に戻りたくなかった。社会保険の業務に国家資格があることを知ったので、もっとわかるようになろう、仕事ができるようになろうと思って、勉強し始めたんです」
毎日、朝の3時に起床。「これ以上無理だと思うくらい」勉強して、資格取得までに3年かかった。
本人の気持ちに寄り添い、お手伝いできるのが強み
社労士試験に合格したのは、45歳の時。翌年、会社を辞め、年金事務所で行政協力をしながら、自宅の空き室に自らの事務所も開業する。
社名は「社労士Officeボクマクハリ」。昔、「僕と千葉県の幕張に住んでいた女優さんの2人で始めた」という「ボクマクハリ」という劇団のユニット名からネーミングした。
その先の展望は何もなかった。そこで、岩﨑さんは社労士葛飾支部の開業した会員たちにインタビューして、自分はこれから何をするべきかを考えた。
「障害年金の申請などの相談であれば、自分のペースでできる。当事者だった経験を生かすこともできる」
岩﨑さん自身も障害年金の受給経験があるという。それだけに、本人の気持ちに寄り添って、お手伝いできるのが強みだ。
しかし、ひきこもりという状態は、病名ではなく、様々な事情から医療につながれない人たちが非常に多い。本人や家族の中にも「病気や障害ではない」と抵抗を感じている人も少なくない。障害年金は診断書がないと受給できない実態が大きな壁になっていて、制度の狭間にある社会課題になっている。
その点について、岩﨑さんは「障害者になるというより、ここを抜け出す扉の1つ。鍵のかかっていない扉」だと考えるといいのではないかという。
「私がひきこもりだった頃、全方位が壁に覆われていました。振り返った今だから言えるのですが、その中には扉があって、しかもカギすらかかっていなかったんです。元気になった時期や気分が上がったときに、手の届く範囲にそっと情報を置いておいてもらえれば。私もその扉を抜けて開業し、年金事務所で勤務もできるようになりました」
続けて岩﨑さんは言う。
「ダメになってもいい。それを乗り越えられなくてもいい。ダメな自分でも合っているし、それが正解だと信じること。それしか出来ない時もあります。そのまま信じて毎日進むことで、いつか未来の自分の観測によって過去は新しく意味づけられると思うのです」
こうして乗り越えなくても、過ぎ去り、形を変えていくものなんだというのが、岩﨑さんの持論だ。
「本人の気持ちがわかる社労士」として、全国どこからでもオンラインなども使って相談のカウンセリングも行っている。近隣であれば、交通費ももらわずに相談に出かけていくという。
また、葛飾区ではNPO法人みらくる主催の「岩﨑さんとお話タイム」、北区主催の「みんなの居場所」では、社労士とタロット占いを楽しむ会なども開いている。