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【戦国こぼれ話】国友鉄砲は足利将軍家からの製作の要請によってはじまったのか。研究の新段階を読む

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
戦国時代に日本に伝わった鉄砲は、合戦のスタイルに多大な影響をもたらした。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 戦国時代に日本に伝わった鉄砲。合戦のスタイルに多大な影響をもたらしたのは、周知の事実である。しかし、鉄砲についてはさまざまな疑問があり、国友鉄砲のはじまりも同じである。今回、最新の研究で改められた事実があるので、紹介しておこう。

■鉄砲伝来のことなど

 我が国に鉄砲がもたらされたのは、天文12年(1543)8月のことといわれている。ポルトガル船が門倉崎(鹿児島県南種子町)に漂着し、現地の種子島氏に鉄砲を伝来したというのである(『鉄炮記』)。教科書的にはそうなっているが、今や『鉄炮記』の記述が疑問視され、再検討を迫られているのが現状だ。

 天文13年(1544)、ときの将軍・足利義晴から鉄砲を見せられ、国友(滋賀県長浜市)で鉄砲の製造がはじまったという。国友鉄砲のはじまりだ。これは『国友鉄砲記』に書かれたことで、長らく信じられてきた。

 しかし、太田浩司氏の論文「国友鉄砲鍛冶の成立 ―編纂物に頼らない歴史構築の試み―」(『銃砲史研究』391号、2020年。日本銃砲史学会刊行)により、上記の点に疑義が提示され、新しい説が提示されている。

 以下、長浜市提供の報道資料「国友鉄砲鍛冶成立に関する論文の発表 ~室町将軍による創始説から浅井氏による創始説へ~」などももとにして、新説を提示しておこう。

■新説のポイント

 太田氏の新説のポイントは、4つになる。

(1)『国友鉄砲記』は史料的に信用できない

 国友鉄砲鍛冶は『国友鉄砲記』の記述により、室町将軍家からの発注により創始されたと考えられてきた。しかし、『国友鉄砲記』は史料的に信用できず、実際は戦国大名の浅井氏が意図的に鉄砲鍛冶集団を国友村に作ったと考えられること。

 『国友鉄砲記』は、17世紀初頭に成立した二次史料である。ゆえに史料としての信頼度が低く、むしろ戦国大名の浅井氏が国友村に鉄砲鍛冶集団を作ったのが正しい。

(2)織田信長が国友村に鉄砲を発注した史料は確認できない

 織田信長が国友村に鉄砲を発注したことは、確実な史料からは確認できないが、天正3年(1575)の長篠設楽原合戦で信長軍が用いた鉄砲の多くは、国友製であることは否定できない。

 天正3年(1575)の長篠設楽原合戦(織田・徳川連合軍の鉄砲隊と武田軍騎馬軍の戦い)に際して、織田信長が国友村に鉄砲を発注したと考えられてきたが、裏付けとなる史料は確認できない。

(3)根本史料は「国友助太夫家文書」

 長浜城主・羽柴(豊臣)秀吉や佐和山城主・石田三成からの鉄砲発注や鍛冶師の保護政策については、『国友鉄砲記』などによらず、「国友助太夫家文書」に残る秀吉や三成の文書から論証した。

 秀吉や三成の鉄砲発注や鍛冶師の保護政策は、『国友鉄砲記』などの信頼度が落ちる二次史料ではなく、一次史料の「国友助太夫家文書」に拠ったということである。

(4)大坂の陣で江戸幕府が国友村に発注した鉄砲数

 慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣へ向けて、江戸幕府が注文した鉄砲の数は、「国友助太夫家文書」などの確実な史料により、少なくとも192挺となり、600挺以上になる可能性もあること。

■国友鉄砲研究の新展開

 太田氏の研究については、日本銃砲史学会常務理事・小西雅徳氏の編集後記により、「国友鉄砲鍛冶については新たな展開の段階に入ったとの認識を持つための重要な論考」と高く評価されている。

 実は鉄砲に限らず、戦国時代の有名な逸話などについては、史料的に信頼度の低い二次史料に基づくものが少なからずある。話としてはおもしろいのだが、信が置けないことも多々あるのだ。

 太田氏の研究によって、国友鉄砲だけではなく、わが国の鉄砲史研究が進展することを大いに期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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