【幕末こぼれ話】幕末に坂本龍馬が使ったピストルの写真が一枚だけあった!
慶応2年(1866)1月23日は、土佐藩の坂本龍馬が伏見の船宿寺田屋で捕り方に襲われ、辛くも脱出した事件があった日である。
この寺田屋襲撃事件の際、龍馬の危機を救ったのは、同志高杉晋作から贈られた一挺のピストルだった。龍馬の命を、もう一人の幕末の英雄高杉がピストルを贈って救うという、まるでドラマのような劇的な話があったことには驚かざるをえない。
龍馬が使ったピストルは現存していないが、実は写真が一枚だけ残されている。貴重なその写真について、今回はご紹介したい。
寺田屋で捨てられたピストル
ピストルは当時はまだ日本人のほとんどが見たこともない最新式の武器だったが、龍馬はそれを高杉晋作から贈られたと手紙に書いている。
「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い――」(慶応2年2月6日付・木戸孝允あて書簡)
このピストルは、アメリカのスミス&ウエッソン社が製造した「スミス&ウエッソンNo.2」だったとされている。1857年(安政4年)に造られた「No.1」の改良型として、1861年(文久元年)に開発されたものだ。参考までにレプリカの写真を掲げておこう。
しかし、実はこの日龍馬がそれを持っていたという証拠はない。なぜなら、龍馬は寺田屋で捕り方と格闘した際、ピストルを現場に捨てて逃走しているのである。
「それより銃を捨て――」(慶応2年12月4日付・坂本権平一同あて書簡)
弾丸を補充しようと回転式弾倉をはずした際、それを床に落として見失ってしまったため、ピストルで戦うことをあきらめ放り捨てたというのだ。
このピストルはその後龍馬のもとに戻ってくることはなく、また幕府のほうでも拾得したという記録がない。したがって、龍馬がこの日使用したピストルの型が何であったのかは、ついに不明のままになってしまったのである。
一枚だけ残された遺品写真
そんななかで、龍馬がどのようなピストルを持っていたかを伝える記録が一つだけあった。それは、寺田屋襲撃から約2年後、慶応3年(1867)11月15日に龍馬が京都近江屋で暗殺されたあと、遺品のなかに一挺のピストルがあったのである。
これは昭和2年に刊行された龍馬の伝記『雋傑坂本龍馬』に収録された写真だが、龍馬の遺品として愛刀の陸奥守吉行などとともにはっきりとピストルが写っている。吉行の鞘が破損していることからも、龍馬の遺品写真に間違いはない。
そして、ここに写っている写真は、まぎれもなく「スミス&ウエッソンNo.2」だ。龍馬は、寺田屋でピストルを失ったあと、再度ピストルを入手し、少なくともそれがスミス&ウエッソンNo.2だったということになる。
残念ながらこの写真の現物は残されておらず、遺品類も散逸してしまっている。龍馬が使ったNo.2も、いまではどこにあるのか行方がわかっていない。
しかし、この一枚の写真が撮られていたおかげで、寺田屋で使ったものではないにしても、龍馬が愛用していたピストルをかろうじて知ることができた。実物が残っていない以上、それだけでも私たち幕末ファンにとっては、ありがたいことと思えるのである。