イスラエルによるパレスチナ人排除の歴史の再隠蔽:ハアレツ紙が調査報道、続くパレスチナ難民の苦難
イスラエルの有力紙ハアレツは5日、1948年の第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)で、ユダヤ人部隊がアラブ人(パレスチナ人)の村を攻撃し、虐殺を行ってアラブ人を追い出し、排除した記録を、イスラエル政府が組織的に隠蔽しているとする調査報道特集を掲載した。
48年の戦争は、70万人以上のパレスチナ人難民を生み、パレスチナ人は「ナクバ(大厄災、大破局)」と呼ぶ。イスラエルは長い間、パレスチナ人は戦火を逃れて自主的に逃れたと主張し、難民たちの帰還を拒否してきた。しかし、1980年以降、イスラエルの新しい世代の歴史家たちが、ユダヤ人部隊・イスラエル軍がアラブ人の町村で組織的な破壊、殺戮を実施したことを軍から開示された記録や資料によって実証してきた。しかし、政府によって自分たちに都合の悪い歴史を改めて封印する動きが進んでいることが明らかになった。
記事はハアレツ紙5日付の「ナクバの隠蔽:イスラエルはいかに組織的に1948年のアラブ人の追放の証拠を隠しているか」という特集。同紙インターネットの英語版では英文5000ワードを越える長文記事である。
ハアレツ紙の記事「ナクバの隠蔽:イスラエルはいかに組織的に1948年のアラブ人の追放の証拠を隠しているか」
記事はイスラエルの女性歴史家タマル・ノビック氏が4年前に、民間の歴史資料館で、48年にイスラエル北部のサフサーフという村であったイスラエル軍による虐殺を記録した歴史文書を発見したという記述から始まる。虐殺の記述は次のような内容である。
サフサーフでは52人の男たちが拘束され、互いに縄で縛られた。穴を掘って、その男たちを射殺した。10人ほどはなお身体を小刻みに動かしていた。女たちがきて、慈悲を乞うた。老人の死体も6体あった。全部で61の死体があった。3件は強姦で、一件は14歳の少女だった。4人の男性の射殺。その一人の男は指をナイフで切り落とされ、指輪を奪われていた。
文書には村でのイスラエル軍による虐殺や略奪が記載されていたという。記載者の名前などはなかったという。資料を発見したノビック氏はハアレツの取材に「資料は途中で途切れていた。私はその文書の内容に困惑したが、発見した以上、何が起こったかを明らかにする責任があると思った」と語った。
ノビック氏はその資料について、イスラエルの歴史家のベニ・モリス氏を訪ねて相談した。モリス氏は1980年代後半からイスラエルの独立戦争の背後にあるアラブ人追放の歴史事実をイスラエル軍関係の資料を基に実証的してきた「ニュー・ヒストリアン(新しい歴史家)」と呼ばれる歴史家を代表する人物だ。
モリス氏の著書の中にもサフサーフ村で起きた虐殺の記録があり、脚注でノビック氏が見つけた資料と似たような内容が出ていた。モリス氏はその資料を見つけたのは、ノビック氏が見つけた歴史資料館と同じだと明らかにした。サフサーフ村などイスラエル北部の上部ガリラヤ地区を制圧した48年10月末の「ヒラム作戦」と呼ばれる軍事作戦の後、その作戦を実施したイスラエル軍の前身である軍事組織「ハガナー」の司令官が同11月に左派組織幹部に説明した文書として保管されていたという。
ノビック氏はモリス氏が語った公式文書と、自身が発見した出所不明の文書を照合するために、歴史資料館に戻って探したが、モリス氏が言った資料は存在しなかった。ノビック氏はモリス氏の思い違いかと思ったが、調べていくうちに、歴史資料館の文書保管の担当者から「国防省の命令によってその文書は閲覧禁止で封印されている」と言われたという。
ハーレツ紙は「この10年ほどの間に、国防省のチームがイスラエルの歴史資料を探索し、イスラエルの核開発計画や外交関係文書を秘密書庫に移したが、48年のナクバの証拠を明らかにする数百の歴史文書が組織的に隠蔽された」と書いている。
ハアレツ紙によると、国防省で「マルマブ」と呼ばれる秘密組織によって歴史資料の隠蔽作業が行われているという。ハーレツ紙はマルマブの活動について調査報道を行い、「イスラエル軍の将軍たちがイスラエル独立直後10年間に行われたアラブ人の民間人の殺害や村の破壊、遊牧民の追放などの証言を封印した。ハアレツが官民の資料館の関係者から取材したところ、治安部門のスタッフは資料館をまるで自分たちの所有物のように扱い、時には資料館の責任者を脅すこともあった」と書いている。
マルマブチームを2007年まで約20年間率いていた人物はハアレツ紙の取材に名前を出して、活動は自分が始めたもので、現在も続いていることを認めた上で、「48年の出来事が明らかになることは、イスラエル国内のアラブ市民の反感を生み出すのだから歴史資料を隠すのは理になかったことだ」と活動を弁護した。すでに内容が出版物などで明らかになっている文書を隠すのはなぜか、という質問について、「パレスチナ難民問題の歴史についての研究の信用性を損なわせることだ」と語ったという。
1948年にあったユダヤ人軍事組織とイスラエル軍によるアラブ人の組織的な排除についてはモリスと同様に「ニュー・ヒストリアン」の1人であるイラン・パぺの著書『パレスチナの民族浄化 イスラエル建国の暴力』(田浪亜央江・早尾貴紀訳)の中で詳述されている。パぺは同著の中でアラブ人の排除は軍事組織ハガナ―の「ダレット計画」として立案、実行されたとし、次のように結論付ける。
「任務は6カ月で終わった。すべて終わった時、パレスチナにもとから住んでいた人の半数以上、約80万人が追放され、531の村が破壊され、11の都市部が無人にされた。組織的に実行されたダレット計画は、今日の国際法では人道に対する罪とみなされる民族浄化作戦だったのは明らかだ」
パペやモリスらニュー・ヒストリアンらが、イスラエル軍の文書をもとに、ユダヤ人部隊とイスラエル軍によるアラブの村での虐殺や破壊が、大規模な難民をうみだす重要な要因であったことが実証的に研究され、出版され、イスラエル国内でも建国の裏に人道に関わる犯罪が隠されていることは知られるようになった。しかし、今回のハアレツ紙の報道によって、イスラエル政府と軍が、自分たちに不都合な歴史事象の記録の「再隠蔽」の作業が進んでいることが明らかになった。
今回、ハアレツの特集の冒頭に出てくる旧パレスチナのスフサーフの虐殺については、私がベイルートにあるパレスチナ難民キャンプ「シャティーラ」で100人以上の難民たちにインタビューして、今年4月に刊行した『シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年』(岩波書店)の中でも、元村人自身が虐殺の証言をした。現在84歳で、ナクバ当時13歳だった少年は、イスラエル軍の攻撃を受けて、家族と共に、村にある大きな家の一つに避難していた。その家には35人ほどの村人が非難していたという。そこへイスラエル軍が入って来た。老人は次のように語った。
銃を構えていたユダヤ人が私の兄のマフムードに「外に出ろ」と言った。私は兄に抱き着いて、外に行かせないようにした。私は「兄は外には出ない」と叫んだ。すると、ユダヤ人は私の腕を兄から引きはがし、私を殴り、私は床に倒された。ユダヤ人は兄を外に出した。その時、マフムードら若者と大人たがをみんな外に出され、ドアが閉められた。その後、ユダヤ人が自動小銃を連射した。タタタタタタッと自動小銃の音が響いた。ユダヤ人が立ち去った後、家の中にいた女たちは外に出て、折り重なった家族の遺体にすがりついた。(『シャティーラの記憶』より)
この家で殺されたのは15人ほどだったという。イスラエル軍はその後、車に遺体を乗せて、一か所に埋めたという。この虐殺の後、村人たちは夜の間にすべて村から逃げ出して、国境を越えてレバノンに逃げ、難民化した。当時、虐殺を目撃した少年が、現在84歳となってパレスチナ難民キャンプに暮らして生々しい証言をしたことは、私にとって衝撃だった。
現在、パレスチナ難民は540万人となり、いまなお国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が管理する58の難民キャンプがレバノン、シリア、ヨルダン、ガザ、ヨルダン川西岸にある。すべの難民が難民キャンプで暮らしているわけではないが、レバノンでは就職差別を受け、シリアでは内戦でキャンプが破壊され、ガザではイスラルの封鎖が続き、難民たちの苦難はいたるところで続く。すべての原因となったナクバから70年が過ぎ、ナクバを記憶し、証言する難民第1世代も、難民キャンプを訪ねる度に少なくなっている。その一方でイスラエル政府が大量難民を生んだ軍事作戦の歴史事実を隠ぺいする動きが進むことは、パレスチナ人問題を歴史から葬る去ることにつながる。