【横浜市】異人館のある街を描いた「霧笛」 横浜舞台の小説①/大佛次郎没後50年
横浜出身の作家・大佛次郎(おさらぎじろう、1897-1973)。昭和初期から戦後にかけて、横浜を舞台にした小説を書いた。「霧笛」「花火の街」「幻燈」の3作品は、いずれも明治初期の横浜を描いている。現代の横浜から、「霧笛」を読んでみる(小説のあらすじはこちらの記事も)。
・「異人館」のある横浜――外国人居留地時代
・南京町、代官坂、鷺山
「異人館」のある横浜――外国人居留地時代
「霧笛」には、明治10年代の時代背景がふんだんに盛り込まれている。中でも「異人館」の存在は、物語にミステリアスな雰囲気と閉塞感を演出している。
日米修好通商条約締結によって開港した横浜では、世界各国との貿易が始まり、外国人居留地が広がった。主人公の千代吉が住み込みで働く「異人館」は、外国人居留地にある住居。そこには日本の暮らしとは違う生活があった。大佛はエッセイで次のように書いている。
横浜に戦災があるまでは、まだ異人館とか異人屋敷と言うものの面影を留めた建物がブラフの丘や北方あたりにあった。明治の初めに建てられた板羽目の洋館で、青いペンキを外側に塗ってある。(中略)とがって天狗のように高い鼻、帽子と言う存在、女たちの傘のようにひろがったスカート。蝙蝠傘(こうもりがさ)。それから犬を連れて外出すること。一々の驚きなのだ。その不思議な人間たちの生活が行なわれている箱のように内部が外からのぞけない建物。それが異人館だったし、異人屋敷であった。――「異人館」
千代吉は、財布を盗むスリを働き、警察に突き出さないかわりに主人・クウパーの屋敷で働くことになった過去を持つ。逆らうことのできない主従関係が、「霧笛」の物語を作っている。
開港から明治時代にかけての横浜を描いた絵画でも、「異人」や「異人館」は取り上げられている。
現在の横浜にも、当時の雰囲気を伝える建物が保存されている。たとえば「エリスマン邸」や「山手111番館」は、山手の観光・散策コースとして人気だ。
外国人居留地は、治外法権の世界でもあった。自らの過去を話さない千代吉に、喧嘩をしかけた「お代官坂の富」は言う。
「なアに、話したって、おれなら心配はありませんぜ。おれの友達で異人館にいる奴(やつ)ときたら、たいていなにかあって警察(ポリス)を避けている男だ。あすこは、どんな刑事(でか)だって、一歩も踏みこめねえんだからなあ(後略)」
――「霧笛」
物語の後半、千代吉はクウパーの所有する船に呼び出される。そして、クウパーがピストルで船員を殺害するところを目撃させられる。しかしそこに日本の警察は介入しない。クウパーは「船は英国の領土(ブリティッシュ・ドミニヤン)だ。日本のポリスは関係しない」と語るのだった。
船を後にするクウパーと千代吉。人や物が行き交うにぎやかさの裏で、静寂と闇も描かれている。
二人は谷戸坂(やとざか)を登り始めた。遠く船の霧笛(むてき)の声が崖の暗い、空の高い深夜の静寂の中に聞えた。尾を港の空に長くひいて、淋(さび)しい音であった。――「霧笛」
南京町、代官坂、鷺山
大佛は横浜の出身だが、小学校に入ってすぐ東京に引っ越したこともあり「横浜のことはあとで勉強した」(「私の履歴書」)と語っている。
執筆にあたり横浜を歩き、人に接して題材を得たことが、「霧笛」の描写を説得力のあるものにしている。
そのころ客を避けてホテル・ニューグランドに隠れて港を窓に見ながら仕事をしていたので、夜になると、裏町を飲んで歩き、その間に見聞きしたことが、霧笛の肉となった。――「あとがき」(『大佛次郎時代小説自選集 第6巻 霧笛・幻燈・薔薇の騎士』)
「霧笛」には、「南京町(なんきんまち)の豚常(ぶたつね)」「お代官坂の富」といった、若い衆の姿が生き生きと描かれている。喧嘩と博打に明け暮れる彼らは、街を取り仕切っている。
「南京町」は現・中華街のことで、元は外国人居留地。明治4(1871)年に「日清修好条規」が締結され、中国(清)人の居住が正式に定められた。
こちらは夕暮れの「代官坂」。元町の商店街を抜けて、山手公園や西洋館の並ぶ山側へ、坂が続く。
坂を上がったところには、「代官坂上」の交差点。
千代吉と恋人・お花の密会場所となるのは「鷺山(さぎやま)の、二十七番地」。現在の山手トンネルを抜けた先、本牧通りの西側にあるのが「鷺山」だ。
港から離れた高台にあり、中華街や元町のにぎやかさとは対照的。平塚武二が書いた「ヨコハマのサギ山」という掌編では、「サギ山のあたりは、丘つづきのおくまったところですから、あまり人に知られてはいませんでしたが、横浜らしいところでした」と明治時代の様子が描かれている。
本牧通りから「鷺山入口」を入ると、すぐに坂が始まる。
坂を上がった先は閑静な住宅街。「鷺山さくら公園」など、こじんまりとした公園がある。喧騒から離れた、落ち着いた雰囲気が感じられた。
小説に織り込まれた、横浜の風情。地名などを手掛かりにたどってみると、「霧笛」の登場人物がふっと街角に現れるような気がした。
<引用・参考文献>
・大佛次郎「霧笛」(『大佛次郎時代小説全集 第13巻霧笛』朝日新聞社、1975.10)
・大佛次郎「異人館」(『大佛次郎随筆全集 第3巻 病床日記ほか』朝日新聞社、1974.2)
・大佛次郎「あとがき」(『大佛次郎時代小説自選集 第6巻 霧笛・幻燈・薔薇の騎士』読売新聞社、1970.6)
・平塚武二「ヨコハマのサギ山」(『ふるさと文学館 第17巻 【神奈川Ⅰ】』ぎょうせい、1993.11)
・橋本玉蘭斎編・画『横浜文庫』、国立国会図書館デジタルコレクション
・歌川広重(三代目)「横浜波止場ヨリ河岸通異人館之真図」、郵政博物館ホームページ
・小林一彦「中華街の今昔」(地図情報センター編『地図情報』第29巻第1号、2009.5.29)