豊臣秀吉の養子・秀次は、本当に凡庸・無能で残忍な人物だったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が注目されている。ところで、秀吉の養子になった秀次は、良い評判がなかったが、それが事実なのか考えることにしよう。
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀吉の養子・秀次は高野山で切腹した。その直後、秀次の妻子は皆殺しにされた。秀吉が秀次に切腹を命じた理由は諸説あり、いまだ確証を得ないのが実情である。今後の大きな課題であろう。
秀次は茶や能を愛好し、また古典の収集に努めた。教養人として知られている。剣術や槍術にも優れており、弓術や馬術も学んでいたので、武芸には堪能だったと思われる。小牧・長久手の戦いでは失態を演じたが、決して無能な人物ではなかったようだ。
その一方で、秀次が秀吉から切腹を命じられた理由として、さまざまな悪行を行ったことが取り沙汰されている。たとえば、秀次が千人斬りという辻斬りを行ったとか、そのほか悪逆無道の限りを尽くしたという。それゆえ秀次は、「殺生関白」と称された。
ところが、フロイスの『日本史』には、「この若者(秀次)は叔父(秀吉)とまったく異なっていて、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」と書かれている。
この記述を見る限り、秀次は先述した人殺しを好むような男とは思えない。フロイスが「禁欲」を強調しているのは、秀吉が大坂城に若い女中をたくさん囲っていたからで、秀次と対比させて評価したのである。
さらに、フロイスの『日本史』には、次のとおり書かれている。
関白の甥である新関白秀次は、弱(若)年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急ではなく、物事に慎重で思慮深かった。
そして、平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。彼は関白から、多大の妄想と空中の楼閣ともいえる、上記のような内容の書状を受理したが、ほとんど意に介することがなかった。
フロイスは秀吉を酷評する一方で、秀次には大賛辞を送った。フロイスの記事をどこまで信用するかが問題であるが、もし事実ならば、秀吉は優秀で人柄の良い秀次に嫉妬したに違いない。その嫉妬こそが、秀次を切腹に追い込んだ要因とはならないだろうか。