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【戦国こぼれ話】陶晴賢に討たれた大内義隆は、戦国時代における文化人の1人だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大内義隆は文芸に溺れ、政治や武芸に疎かったといわれている。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 先月、山口市では、大内義隆が寄進した興隆寺の鐘を鳴らし平和を祈る催しが行われた。大内氏といえば、戦国時代における文化人の1人だった。いったい、どういう来歴の人物だったのだろうか。

■大内義隆とは

 義隆は義興の子として、永正4年(1507)に誕生した。父の死後、大内氏の家督を受け継いだのである。義隆もまた、敵対する出雲尼子氏らと戦いを繰り広げた。

 天文5年(1536)には、九州北部の少弐資元を自殺せしめ、大宰大弐に任じられた。その後、敵対していた豊後大友氏と和睦を結んだ。

 天文10年(1541)には尼子氏を討ち破るが、その2年後には逆に大敗を喫し、子の晴持は乗った船が転覆して溺死するという悲劇に見舞われた。

 以後も、義隆は子を亡くした失意のなかで、安芸・備後・伊予などに派兵を繰り返し、反大内の勢力を相手に戦い続けたのである。

■和歌を好んだ義隆

 義隆も大内氏の歴代当主と同じく、和歌について精進を重ねた。父・義興は歌人として著名な飛鳥井雅俊と親交が深く、『古今和歌集』の注釈書『古今秘決』を贈呈された。また、連歌師・宗碩からは、古今伝授を授けられたといわれている。

 古今伝授とは、歌道伝授の一形式である。『古今和歌集』を講釈し、その注説の重要な部分を切紙として示し、これに古注・証状・相承系図を付して伝授した。

 古今伝授は、誰もが受けられる訳ではなかったので、いかに義興が優れた歌人だったかがわかる。義興は盛んに和歌会を開催し、和歌に熱心に取り組んでいた。

 義隆がこうした父の影響を受けたことは、想像に難くない。実際、義隆は山口を訪れる公家や僧侶を歓待し、彼らから和歌を学んだ。とりわけ飛鳥井雅俊、三条西実隆、堯淵僧正から、和歌の指導を受けたことがわかっている。

■大内氏館とは

 大内文化の源といえるのが、大内氏館である。大内氏館は、山口市大殿大路に建てられた大内氏の居館(守護館)であり、大内館跡・築山館跡・高嶺城跡・凌雲寺跡から構成される。

 現在は「大内氏遺跡附凌雲寺跡」として、国の史跡に指定された。室町・戦国期の武家館跡としては、非常に貴重な遺跡であると高く評価されている。こうして、山口は「小京都」と称され、公家などの文化人、ザビエルのような外国人が訪れたのである。

■義隆は文芸に溺れていたのか

 作者不詳の『大内夢物語』という後世の書物では、大内義隆を「ひととなり容貌優美にして、女色にふけり、和歌・弦楽を好み、武道にうとく、茶道・蹴鞠の遊びに日を暮し、仏道に心を入れ、専ら華美を好み奢り、当時の諸侯になかりし」と評価している。

 義隆が幅広い教養を身につけ、知識人であったことはいうまでもないが、こうした後世の人の評価を鵜呑みにするのは、いささか危険であろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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