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連日発生したホテルニュージャパン火災と日航羽田沖墜落事故から40年 今も生きる教訓

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:Fujifotos/アフロ)

40年前の大火災と墜落事故

 今から40年前、私は某ゼネコンの新入社員として、東京で独身寮生活をしていました。就職した1981年の8月には、IBMがMS-DOSを搭載したPCを世に出し、パーソナルコンピュータの幕開けの時でした。1973年の第四次中東戦争を機に始まった第1次オイルショックと、1979年にイラン革命を機に始まった第2次オイルショックから立ち直りつつあった時でもあります。そんな時に、2日連続で東京での大惨事が起きました。まず2月8日未明に、政治の中心地・永田町にあったホテルニュージャパンで火災が発生しました。さらに、翌日2月9日に、日本航空のダグラスDC-8-61型機が羽田空港沖に墜落しました。東京に上京したばかりの私にとって、連日の大惨事は実感のないものでした。

ホテルニュージャパン火災

 ホテルニュージャパンは、国会や赤坂見附の近くにあった有名なホテルで、地下2階、地上10階の建物でした。立地の良さもあり政治家や著名人がよく利用していました。実業家で政治家でもあった藤山愛一郎氏が高級アパートメントとして建設を始めたのですが、建設中に2/3をホテルに用途変更し、1960年にホテルとして開業しました。

 ホテルの9階に宿泊していた酒に酔ったイギリス人の寝タバコの不始末で原因で、3時24分に出火したようです。初期消火の失敗や通報の遅れがあり、出火15分後に通行人が消防へ通報したのが第一報でした。東京消防庁の総力を挙げた消火活動にもかかわらず、鎮火に約9時間を要しました。資料によると、宿泊客は442人で、出火階の9階以上に宿泊していた約100人のうち6割は海外ツアー客だったそうです。この火災での死者は、高層階を中心に33人で、34人が負傷しました。死者の2/3が外国人で、窓から飛び降りて命を落とした人が13人もいました。

防火・消火設備の不備と初動対応の遅れ

 ホテルニュージャパンは、火災発生時にはスプリンクラー設備などの消防用設備が設置されていませんでした。本来は、50年前の1972年に起きた千日デパート火災を教訓に1974年に消防法が改正され、スプリンクラーなどの設置が遡及適用されていなければいけなかったのですが、消防当局からの指摘にもかかわらず、対応を怠っていました。防火区画の不備や可燃材の多用、消火設備の偽装工作なども行われ、火災報知機や煙感知器も故障したまま放置されていたようです。従業員の教育不足や人数不足、不適切な初期消火活動や避難誘導、消防への報告の遅れなど、初動対応の拙さが状況を悪化させました。

 背景には安全を軽視した経営方針があったようです。ホテルの経営者だった横井英樹社長に対して、1993年11月25日に、業務上過失致死傷罪での禁錮3年の実刑判決が最高裁判所で確定しました。火災後、ホテルは廃業したものの、都心の一等地にあった建物はそのまま放置され、14年後の1996年になって解体されました。跡地には、2002年に38階建ての高層ビルが建設されました。

 この大規模火災に対して、東京消防庁は、消防総監自らが現場に出向き陣頭指揮する全庁挙げての対応をして、逃げ遅れた63人を救出しました。東京消防庁は、さらに翌朝に羽田空港沖で日本航空350便墜落事故が発生し、連日、大規模な災害対応をすることになりました。

日航羽田沖墜落事故

 ホテルニュージャパン火災の翌日の2月9日午前8時44分に、福岡空港発、東京国際空港行の日本航空350便のダグラスDC-8-61型機が、羽田空港沖に墜落しました。乗員乗客174人が乗っており、乗客24人が死亡し、149人が負傷しました。

 着陸直前に、機長が操縦桿を押し込み逆噴射させたことが事故原因で、滑走路の手前の東京湾に墜落しました。機体の前部が大破しましたが、尾部の損傷はなかったため、死者は機体前部の乗客に限られました。機長は、事故前日の乗務でも異常な操縦をしていたのですが、その報告は会社にはされていなかったそうです。

 事故調査では、墜落直前に機長の心身が著しく変調を来したことが原因だと認められました。当該機長は、1980年にも不適切な飛行を行っており、その後、精神科で、うつ病または心身症と診断され、機長の業務から外れていたのですが、1981年4月に副操縦士となり、11月からは機長に復帰していました。墜落事故が起きたのはその3か月後です。

裁判判決と精神疾患

 機長は業務上過失致死罪で逮捕されましたが、精神鑑定で心神喪失状態にあったと判断され、不起訴処分になりました。措置入院となって、その後、日本航空を解雇されています。日本航空は、精神疾患を抱えた機長を乗務させていたことを厳しく批判されました。この事故をきっかけに、心身症という言葉がメディアに取り上げられました。私自身、精神疾患を患いつつ社会生活をしている人の多さに気づくきっかけにもなりました。この事故を教訓に、航空業界は、パイロットの日頃の健康管理と航空身体検査を行うため、1984年に航空医学研究センターを羽田空港内に設立し、定期的に検査することになりました。

 これ以前の10年間には、1972年の千日デパート火災、北陸トンネル火災事故、1979年日本坂トンネル火災事故、1980年静岡駅前地下街爆発事故、川治プリンスホテル火災など、大規模な火災や事故が続きました。高度成長期に突貫で作られた社会の安全性の問題が問われた時代に起きた連日の惨事でした。経済成長が鈍化して社会のストレスが高まり始めた時期でもありました。これらの事故の教訓を受けて、日本の安全対策の仕組みが整備されてきました。

 利益や効率を尊び安全を軽視する傾向は現代社会にもあります。バリューエンジニアリングが行き過ぎれば、安全の裕度が下がる懸念もあります。最近、精神的に追い込まれ人が他者を巻き込んで自死しようとする事件が増えています。余裕のない社会でも、安全や他者への思いやりを忘れない「心」を大事にしたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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