25歳の東大卒元Jリーガー社長が挑戦する スポーツクラブ経営の新展開
J3藤枝でプレーした添田社長
関西サッカーリーグ1部は京都府4部という「底」から数えて下から6番目。J1から数えると5番目。十層ピラミッドの大よそ中央に、2023年のJ1昇格を目指して活動する「おこしやす京都AC」がある。2017年までは「アミティエSC京都」の名で活動していたが、2018年春に名称が今のモノに改まった。
18年12月1日付で、クラブの新社長に就任したのが添田隆司氏。東京大学運動会ア式蹴球部(サッカー部)を経て、2015年にJ3の藤枝MYFCへ加入して2年半プレーした25歳の元Jリーガーだ。17年夏からアミティエへ移籍して同年末に引退し、昨季はクラブの運営に携わっていた。
「サッカーの受験」では挫折も
東大は久木田紳吾(現ザスパクサツ群馬)も含めて、過去に2名のJリーガーを輩出している。「入口」の側を見ても、鹿島アントラーズ、清水エスパルス、柏レイソルなどJのユースチームから入部する選手を近年は見かけた。添田が大学1年のシーズンは東京都1部リーグ(関東1部から数えて3部)も制覇していて、決してレベルの低いチームではない。
添田も横河武蔵野FC(現東京武蔵野FC)のユースチームでプレーし、クラブユースの全国大会に出ている。もっともサッカーの世界では順風満帆のエリートではない。彼はこう振り返る。
「中学入学のタイミングで川崎フロンターレとか、FC東京を受けました。三菱養和も受けたと思います。ただサッカーの受験はそんなに上手くいかずに(笑)」
彼は小学校から筑波大附属に通い、中高の入試を経験していない。しかしサッカークラブの受験は最難関に「落ちて」いる。中学進学と同時に加入したのはBANFF横浜ベイ(現BANFF横浜FC戸塚)という街クラブ。中学時代の最高成績は「県大会でベスト32」程度だという。
U-18では全国大会出場も
彼が高校1年からプレーした横河は小学生年代で世界一の実績を持ち、李忠成や三竿雄斗と言った日本代表も輩出している名門だ。ただ指導の質は高くとも、カテゴリーが変わるタイミングでJの育成組織に人材を「抜かれる」立場にある。東京の高校生年代のクラブチームならFC東京、東京ヴェルディ、三菱養和SCに次ぐ立ち位置だ。
東京都武蔵野市にある人工芝グラウンドもU-12からトップまでの全カテゴリーが共用していて、「全体練習は土日を入れて週5日。5時半から7時半」(添田)という環境だった。
ただ添田が高2で準レギュラーだった2009年、横河は12年ぶりに全日本クラブユース選手権へ出場する快挙を成し遂げる。彼らは全国24チーム、関東9枠の狭き門を「関東9位」の瀬戸際で突破した。関東の9位決定戦で戦った相手は浦和レッズユース。今もJ1でプレーする逸材が複数いた強敵を、横河はPK戦で退けた。
当時の彼は「サッカー7:勉強3」くらいの取り組みで、全体練習後も熱心に個人練習へ取り組んでいた。ただJリーガーを現実的に視野に入れていたわけではない。
高3の11月までプレーして現役合格
彼が初めて“受験”を意識したのは高2冬のセンター試験同日模試だ。「1年前だから受けてみたら、結構点数が悪くて、やばいなと思った」のだという。彼の発想がユニークなのは、そこから敢えて東大を目標に決めたことだ。
「自分が頑張り切れるか、あまり自信がなかった。一番上を目指しておけば、頑張り切れなくても、東大じゃなくて、いい大学には行けるだろう思った。サッカーは自分の実力に見切りを付けていました」
彼は受験勉強と並行して、高3の11月までサッカーをやり切った。冬の全国大会であるJユースカップ予選は三菱養和と対戦。添田はこの試合でゴールも決めているが、田中輝希(現おこしやす京都AC)や近藤貴司(愛媛FC)らを擁していた街クラブの雄にPK戦で屈した。
国立の超進学校と、全国レベルのサッカークラブの両方に属する彼は、こう考えていた。
「何故サッカーをやっている人はサッカーだけをやっていて、勉強をやっている人は勉強だけをやるんだろうとすごく思っていた。めちゃくちゃ勉強して、めちゃくちゃサッカーすればいいと当時は思っていた。ここまでやれると実証したかった」
一方で25歳になった添田は、若干の悔いも持っている。
「勉強もしてサッカーもするというところは、すごく大事だと思うんです。でもその二つだけでなく、色んなことに興味を持った結果として、勉強とサッカーを重点的にやっていますみたいな考え方じゃないといけなかった。本当に狭い視野の中でやっていた。そもそも日本の大学しか頭になかった当時の自分が、ちょっと恥ずかしい」
大手商社を蹴ってプロ入り
校内の成績は中の上程度で、東大は「最後の最後までE判定」だった彼だが、入試直前の“追い込み”が奏功して合格を果たす。東大では1年目から起用され、4年次は主将を務めた。大手商社から内定を得ていた彼だが、藤枝MYFCの社長だった小山淳氏に誘われ、J3へのチャレンジを決める。
筆者も「添田選手」のプレーを一応見ているが、特別に上手い選手ではなかった。現役時代の登録は170センチ・67キロで、体格的に恵まれたタイプでもない。彼はドリブル突破が得意なサイドハーフで、最大の強みは守備も含めたハードワーク。彼自身の言葉を借りれば「ごりごりいく感じ」のスタイルで、下半身の強さで局面を打開するタイプだった。
藤枝MYFCでは「ビリからのスタート」だったが、彼が自らの強みとして打ち出したのがフィットネス。ハイプレス、ハイラインを目指していた大石篤人監督(当時)のスタイルの中で、彼は1年目に8試合の出場機会を得た。チームがレベルアップする中で2年目以降の出番は減ったが、成長の手応えはあったという。小山社長(当時)の下で事業企画、地域貢献活動などの仕事もこなし、仕事とサッカーで“文武両道”の日々を送っていた。
藤枝MYFC時代のプレー:添田隆司氏提供
スポーツXが目指す新事業
社長も含めてフロントスタッフが5名の小クラブとは言え、なぜそんな彼が社長になったのか。背景には「スポーツX」という企業の存在がある。
スポーツXはおこしやす京都ACの“親会社”に相当し、創設者は藤枝の前社長である小山氏。藤枝は2009年に発足し、静岡FCとの統合を経て、2012年にJFLへ昇格。14年のJ3発足とともに「J」へ参入したクラブだ。42歳の小山氏は藤枝東高や早稲田大でMFとしてプレーした元選手だが、極めて野心的な経営者でもある。
2018年1月に小山氏は地元企業へ経営権を譲渡して社長から退き、藤枝のコアメンバーが中心になって「スポーツX」を立ち上げた。
新規参入を希望する法人、個人にクラブ作り、経営のノウハウを伝える。手法を標準化して全国に展開させる――。それがスポーツXの取り組もうとしている事業の一つだ。添田社長はこう述べる。
「藤枝が5年でJリーグに上がって、一つノウハウを作れた。そこを標準化して、いろんなところの経営に携わっていきたい。クラブ事業も一事業にはなるけれど、クラブ経営のノウハウをどう可視化して標準化して体系化していくかが、僕の最大のミッションです」
おこしやす京都ACは藤枝に次ぐ「二度目」のスタートアップとなる。子供むけスクールの講師を主力としていたアミティエスポーツクラブのトップチームを引き継ぎ、スクールとは提携関係を結んでいる。
Jを目指す経営者のアドバイザーも
サッカーのJリーグ、バスケのBリーグはオープンリーグの形態を取っている。ライセンスの審査はあるが、排除が目的ではない。昇格に相当する成績を残せばJ1、B1まで上がることができる。
もっとも上を目指すならば人を引き付けるビジョン、魅力が必要だし、スポンサー営業や地方自治体との関係も重要だ。「スポーツクラブの立ち上げ」はどこを見ても手作りで、試行錯誤がつきもの。それをいかに少ない投資で、リソースを無駄遣いせず成し遂げられるか--。このような難題に関して経験を持ち、アドバイスをしてくれる「コンサルタント」は確かに有用だろう。添田社長も「一緒にやりませんかみたいな話はいっぱい頂いている」と明かす。
「会社、個人が使い倒せるクラブ」
おこしやす京都ACはこの11月、JFL昇格を懸けた「全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2018」に出場し、1次ラウンドで敗れた。5部リーグの大会とは言え、「Jへの登竜門」となっている彼らが同大会で戦った松江シティFC、栃木ウーヴァFC、サウルコス福井はいずれもJクラブの元監督が指揮を執り、名の知れた選手も在籍していた。
ただし添田社長は足元も冷静に見ている。
「収支が成り立つのはJFLかJ3ぐらいになってからだと思っている。なので、そこまでは本当に我慢の連続です。運営費用を集めるところに注力しないと、経営資源を分散し過ぎることになる。まずはチームを勝たせるための最低限の資金をどう集めて、どうやってチームを勝たせるかです」
クラブの在り方については「会社、個人が使い倒せるクラブにしたい」と述べる。添田社長は続ける。
「例えばあるサポーターさんから、こういう企画をやりたいとご提案を頂いたり、企業が自社でこういう製品を開発したくて、こういうスポーツ選手の協力がいりますというお話があれば是非ご一緒したいです。おこしやす京都ACと一緒に開発しませんか。ただ、パートナー料は頂きますみたいな形でやっていきたい」
スポーツXは現在、グループとして東南アジアでのサッカースクールなども手掛けていて、添田社長は小山氏とともに世界約40か国を回った。昨季はガーナ代表歴もあるFWエリック・クミを獲得し、関西リーグの5試合で7得点を記録している。彼らは「おこしやす」の名の通り、国内外の“インバウンド”に開かれたクラブでもある。
添田社長の夢は壮大で、それの実現には様々な苦労と障害があるだろう。しかし受験と同様に「一番上」を目指すからこそ、人材と企業は成長を手に入れられる。そして25歳の彼は知性に加えて若さ、伸びしろというリソースを持っている。その話を聞いて、おこしやす京都ACから目が離せなくなった。