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平成の高校野球10大ニュース その4 1999年/沖縄が悲願の初制覇

楊順行スポーツライター
2010年には興南が春夏連覇を達成。沖縄勢の平成の優勝回数は4となった(写真:岡沢克郎/アフロ)

 長い間 待たせてごめんね……

 1999年4月4日、第71回選抜高校野球大会の閉会式。大会の行進曲・Kiroroのヒット曲に乗って、金メダルを胸にした沖縄尚学ナインが誇らしげに場内を1周する。指笛の音が風に乗る。奇しくも沖縄出身のKiroroが歌うように、それは本当に長い長い間待ち望んだ、沖縄勢初の全国制覇だった。

 沖縄県勢としての初めての甲子園は、1958年夏の首里である。まだアメリカの占領下にあり、選手はパスポート持参だった。記念に持ち帰ろうとした甲子園の土は、検疫にひっかかり海に捨てられた。本土への微妙な感情もあり、沖縄県民にとって、甲子園が深い思い入れの地になったのはそれからだ。以後、40年強。90、91年の夏に沖縄水産が決勝まで進出しているが、優勝旗はなかなか海を越えなかった。

「そんな重い優勝旗を、私なんかが持って帰っていいのかな、というのが率直な気持ちです」

 沖縄出身で、豊見城高校時代は名将・栽弘義監督に教えを受けた金城孝夫監督は声をふるわせる。中京大卒業後、76年から愛知・弥富の監督を務め、96年に沖縄尚学に赴任して野球部コーチ。98年8月に監督就任後、わずか半年あまりの快挙に目を白黒させている。

準決勝の相手は横綱・PL

 大会前、92年夏以来の甲子園となる沖縄尚学の評価は、決して高くはなかった。監督も選手も、まずは1勝が目標。金城監督は「選手が、汗をかいて着替えるときにアンダーシャツから湯気が出るのに感激するんですよ。沖縄では、考えられませんから。まずは、こっちの気候に慣れなくては」と笑うほど、のどかなものだったのだ。

 だが1回戦で比叡山(滋賀)の好投手・村西哲幸からスクイズ(記録は犠打野選)でもぎ取った虎の子の1点を、エース・比嘉公也が完封で守りきると、ことごとく接戦を勝ち上がる。2回戦、浜田(島根)に5対3と、チームとして初めて甲子園2勝を記録すると、市川(山梨)との準々決勝は4対2。同点の局面はあっても、全試合を通じて相手に一度もリードを許さず、つねに先手を取る試合ぶりである。

 そして、準決勝。相手は前年夏、春夏連覇する横浜(神奈川)と延長17回の激闘を演じた、PL学園(大阪)である。田中一徳(元横浜)、田中雅彦(元ヤクルトなど)ら、前年夏の経験者が残り、3季連続で対戦した横浜に6対5でリベンジすると、ゆうゆうと4強に進出している。優勝候補の一番手で、比嘉公などは「田中一はあこがれ」という存在だった。

 だが、沖縄尚学の主将・比嘉寿光(元広島)は、ちょっと別の思いでいたという。かつて聞いた話を思い出す。

「前日のテレビで、PLのナインがまるで"明日は勝って当然"みたいな表情でいたのがおもしろくなかったんです。また先発は、準々決勝で平安(現龍谷大平安・京都)を完封したエース・植山幸亮ではなく、西野新太郎。そこも、カチンときましたね」

 自身のバッティングは上向きだった。1、2回戦は四番に座りながら無安打だったが、「積極的に打たせるため」(金城監督)、一番で起用された市川戦は5打数4安打。四番に戻ったPL戦では初回、先発の西野から先制タイムリーを放ってハナをあかしている。

 エース・比嘉公也の調子もいい。浜田戦でベースカバーのさい、右足首を軽くねんざしたが、打者の手元で微妙に曲がるストレートに、PL打線が手を焼いている。4回2死走者なしから、2本の二塁打で1点返された破壊力や、田中一の足には度肝を抜かれたが、胸を借りるつもりが7回で5対2なら上出来である。

「試合をやっていて、おもしろいなと思っていました」(比嘉寿)

目に見えない圧力を感じて

 ところが、7回裏の守り。おもしろい、とばかりはいっていられなくなってくる。2死走者なしから、なんでもないショートゴロを、自身が一塁に高投してしまうのだ。お尻のポケットに簡易カイロを入れ、つねに指先をあたためていたのに、軽率にさばきすぎた。

「前年の夏に見ていた横浜とPLの延長17回も、確か2死走者なしからショートの悪送球で決勝2ランが生まれているんです。あの試合のPLは、延長に入ってから後攻で2回追いついていますし、理屈では説明できない、目に見えない力がある。だから抑えてくれ、コウヤ……と願うしかなかったですね」

 だが、さすがにPLだ。比嘉寿のミスに乗じた2死一塁から四球、さらに長短打で3点と、同点に追いつくのだ。これが逆転のPL……テレビでしか知らなかったPLの圧力をハダで感じ、比嘉寿は背すじがふるえたという。5対5と同点の9回裏の守りでも、2死三塁から比嘉寿の前にゴロが飛んできた。荒れたグラウンドで、直前で高くバウンドした。やばい、と思ったが体が反応してくれ、頭上でキャッチ。今度は丁寧に一塁に投げてピンチを脱し、試合は延長に突入する。

 11回に1点を取り合い、12回沖縄尚学の攻撃。2死二塁から、比嘉公の打球はレフト左前方へふらふらと上がる。これがヒットになれば、大きな1点がだ。左翼を守る田中一は一か八か、俊足を飛ばしてダイビングキャッチを試みた。だが……打球は無情にもグラブからこぼれ、大きな勝ち越し点が沖縄尚学に。さらに一番・荷川取秀明も続いて、決定的な2点目が入る。いけるぞ! 比嘉寿はこれで、勝利を確信したという。

 延長12回、8対6。横綱・PLの大きな難関を突破した沖縄尚学は、翌日も「コウヤ(比嘉)の分まで」と背番号12の照屋正悟が2失点で踏ん張り、打線も水戸商(茨城)の下手投げ・三橋孝裕を攻略して10安打7点の快勝劇だ。首里が初めて甲子園の土を踏んでから41年、県勢として初めての優勝はこうして成し遂げられた。

 以後の沖縄は、すっかり一大勢力となった。2008年センバツでは、沖縄尚学が2度目の優勝を果たし(監督は、前回優勝時の主戦・比嘉公也!)、10年にはライバルの興南が史上6校目の春夏連覇を達成している。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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