【戦国こぼれ話】黒田官兵衛は本当に名将だったの?数々のエピソードは史実と認めてよいのか?
■将たる者の資格とは
ここ1週間でコロナが急速に蔓延し、人々を恐怖に陥れている。政府も対策に躍起であるが、こういうときこそ総理大臣ら国の運営を任されている人々の能力が試されているのだろう。
戦国時代の名将として知られているのが、福岡藩祖の黒田官兵衛(孝高、如水)である。その名将としての逸話は事欠かないが、それは史実として認めてよいのだろうか。
■官兵衛の金言
官兵衛の有名な言葉として「大将は威厳がなくてはならないが、威張って下を押さえ込むのではダメだ」という言葉がある。この言葉には、いかなる意味が込められていたのだろうか。
官兵衛は常に将たる者の心構えを説き、自ら実践した。人は上に立つと、必要以上に威張ったり、失敗をごまかしたりするなど、勝手な振る舞いをするようになる。そうなると、部下の心は徐々に離れ、自らはもちろんのこと、国をも滅ぼす要因となる。
まずは自らが身を修め、信賞必罰を明確にすれば、臣は必ずついてくる。そうなると、自ずから威厳が備わり、風格を醸し出すようになると、官兵衛は言いたかったのである。
■倹約化だった官兵衛
優れた軍略家として知られる官兵衛は、倹約家としても有名であった。無用な出費を極力避け、贅沢をあえてセーブしていた。身の回りの品も、決して華美なものではなかったという。それは、かなり徹底していた。
たとえば、材木の切れ端なども、捨てずに必ず貯めることにしていた。その切れ端は、風呂焚き用に用いられたのである。また、庭には梅の木を植え、そこから収穫される梅を梅干として食用にした。かなりの徹底振りである。
ではいったい、貯めたお金は何に使っていたのであろうか?
■有効に使われたお金
官兵衛は、倹約で貯めこんだお金を貧しい人に施すなどしていた。そうした際には、惜しむことなく、大胆に振舞った。その振る舞いぶりは、家臣が諌めるほどであったという。
また、いざというときのための戦費としても、蓄えは続けられた。そのため、官兵衛は家臣にも倹約を奨励し、家臣も官兵衛の勧めに従った。
このように倹約が徹底すると、家臣や領民にもその心が芽生えだす。皆が身の丈にあった生活を尊び、また出陣にも対応できるように、武具を整えるようになった。そのため、かえって領民は富み、領国に安定をもたらすことになったのである。
■人を欺く官兵衛
知将として知られる官兵衛は、その死の瞬間まで人を欺き続けた。
官兵衛は病に伏してから、家臣たちを呼びつけ、次々に罵ったといわれている。家臣たちは、官兵衛が「ご乱心」であると、恐れおののいた。しかし、これは官兵衛の謀略でもあった。ある日、たまりかねた家臣たちは、官兵衛の子・長政に諌めるように注進した。
官兵衛は、枕元の長政に対して「家臣にひどい仕打ちをするのは、自分が早く疎まれて、長政の代になって欲しいと思わせるためだ」と囁いた。
つまり、官兵衛が家臣に憎まれごとを言えば、家臣は官兵衛を快く思わず、早く長政の代になって欲しいと願うことを期待していたのである。
なぜ、そのようなことを考えたのか?
■思いやりがあった官兵衛
当時は、主人が亡くなると、殉死する慣習があった。官兵衛は殉死によって、優秀な家臣が死ぬことをも恐れたのである。自分が憎まれれば、殉死も無くなり、優秀な家臣は長政に引き継がれることになる。
そのように官兵衛は述べると、後事を股肱の臣である栗山大膳に託した。長政には「大膳を父と思え」と言い残し、大膳に長政の教育係を命じたという。
官兵衛はかねて、自分の死ぬ日を予言しており、その予言した日に亡くなったという。ただ、あまりに出来すぎた話である。
■エピソードは史実か
このように官兵衛に関するエピソードは盛りだくさんであり、名君としての官兵衛像を見事に描いている。しかし、それらは後世になった二次史料に書かれたもので、同時代の史料には書かれていない。
つまり、官兵衛に関するエピソードは創作されたものであり、史実か否かは不明と言わざるを得ない。中には福岡藩の関係者が創作したと思しきものもある。
福岡藩では黒田騒動という御家騒動があったので、家臣の結束を必要とした。そのためには、黒田家を支えるに値する名家でなくてはならなかった。
そこで、敢えて藩祖である官兵衛を名君とすることで、家臣からの求心力を高めようとしたにすぎないのである。官兵衛にまつわる上記の逸話は、史実である可能性が低いのだ。