父が競馬界を去った現在も、父を追いかけ続ける一人の男の物語
父の後を追うように競馬界入り
「声が出ましたね……」
秘策を持って臨んだそのレース。父と共に観戦した男は、当時を述懐してそう語った。
そのレースに込めた想いと、現在の彼の心境や目指すところ、そして今はもう競馬場から去った父への想いを伺った。
1977年9月8日生まれで現在41歳の谷原吉一。
私が彼の父から彼を紹介されたのは2002年の事だった。父・義明、母・惠子。父の名を聞いてピンときた方もおられるだろう。元騎手で元調教師の谷原義明である。02年のある日、その義明から私は家に呼ばれた。当時、吉一はフランスで馬の修行をしており、渡仏予定の私は、両親から手土産と想いを託されたのだ。
こうしてフランスで谷原吉一と初めて会った。
「僕が生まれた時、父は騎手でした。でもサーペンプリンスで日本ダービーに出た(1980年)ことがうっすらと記憶にあるくらい。僕自身は小学5年の時に乗馬を始めたけど、中学はラグビーで有名な茗溪学園だったから、自分もそっちの道へ行きました」
こうして楕円球を追いかける学生時代を送った。そんな生活は高校に進学した後も同じだった。しかし、そんな時も常に馬の事が、頭の隅っこに引っ掛かっていた。
「漠然とですが、先々は馬の世界に入ろうかな……と思っていました。そんな時、母から『ラグビーはプロがない』と言われた事がきっかけで、完全に馬の世界を意識するようになりました」
幸か不幸か、当時はラグビーのトップリーグがまだ存在しない時代。谷原はラグビーへの未練を断ち切る思いでアメリカ留学を決めた。
「アメリカの大学で馬学を専攻するために、高校の頃から向こうへ渡り、おぼつかない英語を勉強しました」
そんな甲斐もあって大学進学を決めると馬術も始めた。そんな折り、日本から朗報が届けられた。
「調教師になっていた父の管理馬であるウインドフィールズが重賞を勝ったという話を耳にしました」
ところが当時の谷原はそんな嬉しいニュースを聞き流していたと言う。
「重賞勝ちというのがどれだけ難しい事なのか分かっていませんでした。だからピンと来なかったんです」
2001年に大学を卒業すると一時帰国。メジロ牧場で働いたが、翌02年には渡仏。名門クリスチャン・ヘッド厩舎で汗を流した。
「馬への接し方など、大切な事を沢山教わりました」
こう言うと当時の面白い逸話を一つ、語ってくれた。
「馬が相手なので働いているとどうしても服が汚れてしまいます。だから最初からそう綺麗ではない服を着て行ったんです」
すると、厩舎長に呼び止められ、言われた。
「馬に対しても『乗り終わったら洗うから』と汚いままにしておくのかい?」
馬がかわいそうなだけでなく、怪我を見落とす事にもなり兼ねないと言われ、目からうろこが落ちる思いがした。
「また、予告なしに訪ねてきたオーナー関係者が、自分の馬を扱っている従業員の服装が汚ければ調教師に恥をかかせる事になるとも言われました」
以来、服装には気をつけるようにした。すると、アブドゥラ殿下の馬を担当させてもらえるようになった。それが後にフランス2000ギニーやレーシングポストトロフィーなど、G1を3勝するアメリカンポストだった。
父と挑んだ最後の重賞
03年に再帰国すると社台ファームを経て競馬学校に入学。04年から美浦トレセンで働き出し、調教助手となった。
「トレセン入りして3厩舎目で父の厩舎に移りました」
09年にはサニーサンデーが福島記念を優勝。
「重賞を勝つ事の大変さがよく分かりました」
しかし、本当の意味で大変さが分かったのはむしろその後の事だった。サニーサンデーは重賞戦線をひた進み、翌年の福島記念では連覇を目指したが、いずれも栄冠には手が届かなかった。
13年に同馬が引退した後も、なかなか重賞には手が届かないまま、1年が過ぎ2年が過ぎ、3年が経った。そんな16年に「素質を感じさせる若駒」が入って来た。
「走りが柔らかくて、体重のわりに大きく見せる。良い馬だと思いました」
それがサンデームーティエとの出会いだった。
「サニーサンデーもそうだったのですが、個人的に大好きな栗毛馬でした」
当時68歳の誕生日まであと少しとなっていたのが父の義明だ。定年まで残された時間は3年弱。この馬でなんとかもうひと花、願わくは重賞を、と谷原は考えた。
ところが同馬が初勝利を挙げるまでには実に9戦を要した。素質はあったものの、大きな弱点も併せ持つ馬だったのだ。
「臆病で何かあるとすぐに立ち上がろうとする。僕を乗せたまま真後ろにひっくり返った事もあって、他のスタッフを乗せる事が出来ませんでした」
それでも脚質を“逃げ”に変更させて固定するなど、試行錯誤を重ねた結果、17年の秋には念願の重賞(セントライト記念)出走を果たした。
「でも、なかなか勝つまではいかないまま、父に残された時間だけがどんどん無くなっていきました」
義明は18年に70歳となり、19年2月末の定年が目の前に迫った。そんな同年2月16日。当時、1000万条件だったサンデームーティエに、最後の望みを託し、重賞ダイヤモンドSへ格上挑戦させた。
「ハンデ戦だし、穴男の江田(照男)さんが乗れる」と期待を語った谷原は、もう一つ、秘策があると言い、続けた。
「ずっと着けてきたメンコ(耳覆い)を今回は外します。追い切りでも外したところ良い感触だったので、一発があるかもしれませんよ」
こうして芝3400メートルのG3に出走したサンデームーティエ。出遅れた時はどうなるかと思われたが、すぐにハナを奪うと、中盤は13秒台のラップを刻みマイペースに持ち込んだ。そして、最後の直線へ向いた。
「一瞬、声が出ました。でも、アッと言う間にかわされてしまいました。勝ったユーキャンスマイルは1頭だけ33秒台で上がってきましたからね。別次元でした」
父の最後の重賞挑戦にも、こう言って淡々と完敗を認めた。それでも2着に粘ったサンデームーティエの横で、父が納得したように微笑んだのを見て、谷原の顔にも笑みが浮かんだ。
「最後に勝たせてあげる事が出来なかったのは残念だけど、馬は頑張ってくれたし、良かったと思います」
引退した父のためにすべきこと
2月一杯で谷原義明厩舎は解散。谷原吉一も稲垣幸雄厩舎へ転厩した。
「新しい環境で勉強になる」と語る谷原は、更に次のように続けた。
「同い年の調教師で、刺激にもなります」
定年となった父は図書館通いをして大好きな読書三昧の日々だと言う。谷原はそんな父に対して、新たな道を作ってあげたいと考えている。
「僕が調教師試験に合格し、父に調教をチェックしてもらったり、北海道の牧場を回ったりして手伝っていただきたい」
そんな日まで少しの間、ゆっくりしてもらいたい、と語った時の表情は、親を思う一人の息子のそれであった。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)