【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧の方が夫の北条時政をけしかけ、平賀朝雅を将軍に擁立した裏事情
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに牧氏事件が勃発した。その背景について、改めて詳しく掘り下げてみよう。
■牧氏事件以前の状況
北条時政は牧の方を後妻として迎え、その間に何人かの娘をもうけた。そのうちの1人の嫁ぎ先が平賀朝雅だった。時政の子の政子、義時から見れば、牧の方は血のつながりがなかったのである。
平賀朝雅は、信濃源氏の流れを汲む大内義信の子だった。建仁3年(1203)、京都守護に任じられた朝雅は従五位に叙され、官位も武蔵守を与えられた。上洛することで、朝廷と接する機会も得た。
これ以前、時政は政敵たる比企能員率いる比企一族を討滅し、幕府内に確固たる地位を築いていた。頼家を伊豆修禅寺に幽閉して以後は、実朝を新将軍に擁立して、背後から操るようになった。
それだけではなく、元久2年(1205)には畠山重忠・重保父子を討った。ことの発端は朝雅と重保の口論であり、朝雅が牧の方に畠山一族に謀反の意ありと讒言したことだった(畠山重忠の乱)。結果、畠山一族は滅亡に追い込まれた。
つまり、時政・牧の方夫妻は、実朝を擁立するだけでなく、朝雅の協力を得て、さらに権力を伸長しようとしたようだ。これには政子・義時姉弟だけではなく、多くの御家人が不信感を抱いた。
■義時の強い態度
畠山重忠・重保の謀反は、まったくのでっち上げだった。畠山一族の兵は100余にすぎず、とても幕府を打倒できる数ではなかった。義時は重忠を討ったとはいえ、時政の言動に大きな疑問を感じた。
畠山重忠の乱後、義時は時政に協力的だった稲毛重成、榛谷重朝を討った。重成の妻は、時政の娘だった。義時は両名を討つことで、強い抗議の意を示したのである。
以降、時政と義時の対立は決定的となり、2人による幕府の主導権争いも表面化してきた。こうした状況下において、牧氏事件が勃発したのである。
■まとめ
そもそも幕府というのは、御家人の利害関係を調整するなど、フラットな関係のなかで運営するのが筋だった。しかし、頼朝の死後は、北条氏を中心に権力闘争が繰り広げられ、邪魔になった御家人は排除された。
時政は権力掌握に腐心しすぎたため、義時のみならず、御家人からの支持を失ったのである。