1年だけ存在した「カナダプロ野球」が原点。還暦めざして現役続行を模索する「リーマン・独立リーガー」
北米では独立リーグのひとつに数えられていたカナディアン・ベースボール・リーグは「アメリカのリーグの一部ではないカナダ独自のプロ野球リーグ」を目指して2003年にリーグ戦を開始したリーグであった。西海岸から東部まで広大な国土の全土に8球団が展開されたこのリーグだったが、選手をすべてカナダ人で賄うことはできず、ロースターに最低5人のカナダ人を入れることを条件に選手をかき集めた。その選手獲得網のひとつとなったのが日本で、元プロを含め、20名近くの日本人選手がこのリーグに参加している。島内さんは一旦帰国し、5月の開幕前に行われるというトライアウトを兼ねたキャンプに潜り込むべく、元甲子園球児の島内博史さんはオンタリオ州のロンドンという町に再び旅立った。
「親からはいい歳していったい何やってんだって、叱られましたけどね。当時もう27歳でしたから」
「トライアウト」と言っても、シーズン前のキャンプに紛れ込むだけだった。すでに参加を認められた選手たちに紛れて余ったユニフォームを拝借して練習に参加するのだ。この時代、なにがなんでも北米でメジャーリーグに連なる「プロ野球選手」という夢をつかもうと多くの若者たちが日本から押し寄せていた。そのほとんどが日本では無名の選手だったが、そこが果たして本当に世界野球の頂点・メジャーリーグにつながっているのかどうかはともかく、北米の独立リーグに挑戦しようとしていた。
他の日本人選手と安ホテルをシェアしながら、毎朝球場へ向かう。球場の警備員は、あらかじめ把握していた日本人の数とフィールドに向かう人数との差にうすうす気づきながらも、目をつぶった。なにしろ誰が誰だかわからないし、どのみち日が経つにつれその人数は減っていくのだ。それに、まだよちよち歩きのリーグは、あらかじめ約束していたキャンプ中のホテルもすべての招待選手に用意できていなかった。「来る者拒まず」の状態の中、なんとか紛れ込んだ島内さんだったが、そのうち「紛れ込み」もばれることになった。チームは、無名の日本人選手たちは「戦力外」と判断し、シーズン直前のオープン戦の試合前、その全員にリリースを言い渡したのだ。
カットされることになった他の選手とともに球場から去ることを命じられた島内さんにここでも助け舟が出される。その日のオープン戦の相手チームから「ピッチャーが足りないから」と、島内さんともうひとりのピッチャーが急遽「移籍」することになったのだ。
結局このチームでも島内さんは戦力外の烙印を押されてしまうのだが、捨てる神あれば拾う神あり。開幕を前に当初キャンプに参加していたチームの本拠、オンタリオ州のロンドンから850キロ東のケベック州・トロワリビエールという町のチームからお呼びがかかることになった。
しかし、開幕の直前の他球団をお払い箱になった日本人投手獲得に監督は納得していないようだった。メジャーリーグで5シーズンプレーした経験をもつその監督は、島内さんが挨拶しに行っても、無視を決め込んだ。ロースターには入っているようでベンチ入りはしたが、いまだ契約書も交わしていない。
チームは開幕戦にサヨナラ勝ちして勢いに乗るかと思われたが、2戦目は先発ピッチャーが2回8失点と大荒れの試合となった。ただでさえ頭数の足りない投手陣にあって、これから続く連戦を考えると、「使える投手」は温存しておきたい。敗戦処理に指名されたのは島内さんだった。
「序盤にこんなに点取られて、この後誰が投げるんだって思ってたら、行けって言われたんです」
と島内さんは「プロ初登板」を振り返る。
こんな地の果てまで来たんだから、もう開き直って楽に投げようと思ったのが功を奏したのか、5回ノーヒットの好投。試合後には月給日本円にして約8万円の契約書が用意されていた。翌日球場に行くと、監督がフレンドリーに挨拶をしてきた。
「これが僕の野球人生のハイライトですね」
と島内さんは笑う。
しかし、これも長くは続かなかった。野球から2年も離れていたアマチュアのピッチャーが通用するほど甘くはなかった。その後、10試合に登板したものの、出ては打たれの繰り返し。結局、11試合に登板、1勝1敗防御率4.84という成績を残したところで、島内さんのプロ生活は突然打ち切られた。「カナダ独自のプロ野球」という壮大な実験は、財政難から前半戦でシーズン打ち切りというあっけない幕切れとなった。
リーグから餞別に渡された航空券を手にして島内さんは失意の帰国となった。
「お客さん少なかったですからね。そのくせ、選手の待遇は良かったですから。僕らは大したことなかったけど、元メジャーリーガーはそれなりの報酬をもらっていたみたいです。リーグが突然終わるとなって、そこからはホテルも食事も出ないって言われたら、もう帰るしかないですもんね。飛行機は成田までで、そこからは自腹で帰りました」
その後も島内さんの「現役」生活は続いた。カナダで一緒になった仲間に誘われて今度はオーストラリアへ。ビールの配送会社でアルバイトしながら、クラブチームでプレーした。なぜそこまで「現役」にこだわったのかと聞くと、島内さんは次のように答えてくれた。
「やっぱりカナダでの初マウンドですね。ミキハウスではもう肩痛くて、イップスもあったんですが、ブランクがあったせいか、いつのまにか両方とも消えていたんです。カナダではもう本当に体の調子良くて。それに、高校の自分の代って、誰もプロ行ってないんですよ。僕自身、ずっとプロになりたいと思っていながら、あんまり人前で大きなことを言うタイプではなかったんで。その一方で、絶対見返したいっていう気持ちを持ち続けてました。それで、小さいリーグでしたけど、カナダで何とかプロとしてやれて、それがすごく自信になったんです。だから、プレーできる場所があるなら続けようって。高校時代も親父がずっと応援してきてくれたんですけど、最初カナダ行きだけは大反対で、口もきかないようになったんですよ。でも僕、カナダで1勝だけしているんです。プロで1勝ですよ。そしたら親父もそれをすごい喜んでくれて、だから可能性が続く限りはやろうって自分も決めたし。オーストラリアに行くっていう時はもう親父も反対せずに応援してくれました」
その後も、「野球の本場アメリカでプロ」という夢を追いかけて島内さんは「現役」を続けた。再度渡米し、アマチュアのサマーリーグに挑戦したり、独立リーグのトライアウトを受験したりしたものの、うまくはいかなかった。三十路の声を聞いて島内さんはユニフォームを脱ぐ決心をした。
帰国後、友人のつてでホテルに職を得、淡路島に移住した。そして結婚もし、淡路島に腰を据えながら、現在は大阪でスポーツメーカーの直営店に勤める。
「野球は、アメリカから帰ってきたときにもうやめました。子供に教えるのはやってましたけど」
通勤に時間のかかる大阪に職を得たのは、いまだそこに住む両親のことを考えてのことだという。野球青年もいつの間にか老いた親の面倒を見なければならない年齢を迎えた。
「大阪に通えば、親のところに顔を出せますから。子供は4人いるんですけど、嫁さんも子育ては淡路のほうが絶対いいって言いますから。通うことにしました。高校も大学も通学時間は今と同じくらいでしたから気にはなりません」
そんな生活を続けていた島内さんの元に、この春独立リーグのチームが地元・淡路に誕生するというニュースが飛び込んできた。50歳を目前にした島内さんだったが、ひょっとしたらという思いで球団の門を叩いた。
「小6の息子が野球を始めたんですよ。3年前くらいに僕がカナダでプレーしたのを知ったみたいなんです。その息子に自分が体を動かして一生懸命やってる姿を見てほしいっていうのがあって。球団にお願いしたんです」
淡路ウォリアーズの所属する関西独立リーグは、選手がアルバイトなどをしながら生活費を稼ぎ、NPBなどの上位リーグを目指してプレーするリーグだ。職をもちながらプレーすることは問題ない。島内さんの経験を買ってなのか、熱意にほだされてなのか、球団は、週末のホームゲームでの活動が中心になることを認めたうえで、入団を許可した。
「歳も歳だから草野球でもいいんですけど、やっぱり硬いボールが好きなんですよね。なんかよくわからないこだわりですけれども(笑)。動けるうちは続けたいですね。うちのチームはいろいろあってシーズン途中に解散状態になって、残りシーズンはいるメンバーに対戦相手のメンバーを加えて、非公式戦というかたちで試合を消化したんですけど、そこで僕、『初勝利』を挙げたんですよ。そこで、思ったんです。よしっ、還暦まで頑張ろうって。ただ家族もいますんで、自分が住んでいる淡路にチームがあればの話ですけど」
職場では、店頭に立ち、かつての自分と重ね合わせながら学生たちの相手をしている。そういう学生たちの中にはどこで聞きつけたか、島内さんが「元プロ」であることを知る者もいる。
「強豪大学の選手もよく来るんです。中には、もうあきらめて引退するんですよなんて弱音を吐くのもいるんですが。そういう選手の声を聞いた時には、自分の経験も話して、もう少し頑張ってみようよなんていう話もしています。お客さんが道具を買ってくれるのももちろんそうですけど、野球を全く知らない人がお客様で来られたときに野球の面白さを伝えるのも自分の役割かなって思いながらやっています」
最後に自身の人生の転機となったカナダプロ野球での経験を振り返ってもらった。
「一生忘れない思い出ですね。他人から見たらああいうリーグがプロかどうかわからないですけど、僕の中では、いろんなチームメートに囲まれて、チャレンジできたことっていうのはやっぱり今でも誇りに思っています」
所属球団の淡路ウォリアーズは、今シーズンは「活動休止」と発表されたが、地元淡路で自ら野球教室を行うなど、野球には今後も精力的に携わっていくつもりだ。島内さんにとっての「引退」はまだまだ先のようだ。