樋口尚文の千夜千本 第12夜 「17歳」(フランソワ・オゾン監督)
性の始発駅、生の終着駅
監督本人の性的な立ち位置ゆえのことか、フランソワ・オゾンはだんぜん女性を描いた時に視線が冴えに冴える。むしろ「危険なプロット」の妖しい男子生徒を描いた場合のほうが、あの籠絡される国語教師そのままにどこかまなざしに甘美なフィルターがかかっているような気がする(のはあながち偏見ではないと思うし、グザヴィエ・ドランにしてもそういう部分での好みや美意識をさらけ出しているところが作品を面白くしているとは思うのだが)。
言葉を換えればオゾンはこと女性像の表現に対しては躊躇なく残酷でいられるようなのだが、その酷薄な視線ゆえに「まぼろし」のシャーロット・ランプリングの寂寥感漂う生のありようも中途半端な美化や粉飾ぬきに見つめられて、あの結末部は溝口健二「山椒大夫」の終盤を想起させるような映画と生の生地(きじ)に接近するような感覚があった。
そんなオゾンが17歳の少女を描くというので、これは期待できるなと思ったのだが、案の定最近のオゾン作品のなかでも突出した密度を持つ傑作となっていた。何不自由ない裕福な家庭で育った17歳の少女がごく平凡なかたちで処女と訣別するが、その後に何を思ったか若い衝動に突き動かされるかのように不特定多数の男たちと金と引き換えに関係を持ち、ひょんな事故からその発覚を見た後、医師である母親と真っ向から向き合い、なんとかノーマルな生活に戻ろうとするも、どうしてもその枠組みのなかにおさまることを受け入れられず、またしても男とホテルで約束をして・・・・といったところがおおよその物語である。
こうして要約すると、こんなティーンエージャーの性的な自分探しの物語に何の新味があろうかと思うだろう。実際かいつまんで言うと、これは精神と肉体の均衡が整わず、無残なまでに自分を傷めつけ、しかもそれを経ないと大切な何ものかに気づけないような、ハシカにかかったかのごとき青春の季節を綴った作品であるのだが、そういうものはまあよくある題材である。だが、フランソワ・オゾンはその陳腐になりかねない題材を、例によって淑女に対するひときわ怜悧な視線によって鮮やかな別物に分子変換しているのだった。
まずこの少女イザベルに扮したマリーヌ・ヴァクトの起用が特筆ものである。しかし彼女が非凡なる美しさの持ち主であるとか、女優としての将来性が溢れているとか、そんな意味で称揚しているのではない。モデル出身の彼女の、演技とは異次元の「見た目」が、このイザベルという役に限ってはひじょうに似合っているのである。というのは、若さという特権をいくぶん武器として意識しつつ、しかしなぜ自分がどうしてこんなことに走っているのかは判らないままに体が動いている、その鋭角さと愚昧さが混ぜ合わさったような不器用で張りつめた表情に彼女は「見える」のである。彼女がどこまでそれを意識的に演じきれているのかは不明だが、この際そんなことは問題ではない。要はマリーヌ・ヴァクトという少女が、この映画にうってつけの「素材」であることは確かだ。
そんな恰好の「素材」を手にしたオゾンは、したがってこの少女の自傷的性行為の数々に何か背景の註釈を施すという野暮はしないで済んでいる。イザベルは、呆れるほどくだらない変態男からダンディな初老のチョイ悪紳士まで、相手かまわず体を委ねるが、ほぼ無表情のままである。そのさまは傷ましいものだが、オゾンは格別に同情するふうもなく、突き放すでもなく、この精神が肉体を追いかけ続けるような営みを、そういうものだと淡々と見つめる構えである。
この「見る前に跳ぶ」ことに憑かれたイザベルを唯一人間として眺め、ほのかな愛情を抱いて本気で彼女の行状に胸を痛めてしまう白髪のチョイ悪紳士・ジョルジュを「ラスト・ターゲット」の組織の連絡役などでも渋い雰囲気を出していたヨハン・レイゼンが演じているが、この起用もさすがオゾンという感じである。肉親ではないし客でもあるからなのだが、この清濁併せ呑む感じのジョルジュは、イザベルの荒魂(あらたま)を抱きとめ、懐柔し、全許容しようとする。ジョルジュが娘といる姿を目撃してイザベルがそれを妻だと勘違いするところも印象的だが、それほどの年の差も、娼婦と客という間柄も関係なく、ジョルジュとイザベルの間には確かな信頼関係の芽があって、イザベルが彼との行為にだけは純粋に快感を見出していることも理解できなくはない。
逆にこの偽善なきありのままのところで結ばれているジョルジュと対極にいるのが、ジェラルディン・ペラス扮する母のシルヴィだ。彼女は保護者としてイザベルについ手をあげてしまうのだが、当たり前のことながら「セヴンティーンの性的人間」ぶりを全許容するゆとりはない。したがって、シルヴィのそれなりに繊細に気を遣った監視下、イザベルの「更生」が試みられるも、それはやはりイザベルの荒ぶるものを馴致できるものではない。試しにその「更生」策におさまってみるかとイザベルがモサいノーマルな(?)同級生的男子とわくわくしないセックスをして、リビングに行くと彼氏が父母ともの凄く穏健な雰囲気で食卓におさまっている図にげっそりするくだりが秀逸だ。われわれは、ここでも特段の説明をされていないのに、このドアを開けてリビングでイザベルが見た主観ショットの無害でイケていない空気がむんむん伝わってくるではないか。映画は「見た目」で語るものだが、背景を感じさせる配役といい、こういう雄弁な一瞬カットの作り方といい、オゾンの「見た目」の計算は恐るべしである。
こんな微温湯的な縛りに辟易したイザベルは、またあの危ういが自分の今の衝動に忠実な世界への誘惑に引き戻されるのだが、実はここまではありきたりと言えばありきたりの展開であった作品が、この後やにわに違うステージへふっと飛んで行くところがオゾンの真骨頂だ。それはちょうど「まぼろし」の後半でシャーロット・ランプリングがうつつのくびきを免れて自らの愛と執着の異世界に歩んでゆく時のけはいにも似ているのだが、やはりその水先案内人として忽然と登場するのがシャーロット・ランプリングなのである。
彼女の担う役柄は作品を観る大きな愉しみとしてあえて隠しておきたいが、彼女は結果的には若さゆえ罪深きことをしたかもしれないイザベルを非難しないーーどころか、「私も金で男に肉体を売ったかもしれない。ただその勇気がなかっただけで」とさえ言いながら、より本質的な人生の儚さを突きつけて、イザベルを戦慄させる。老いを毅然と引き受けてなお美しいシャーロット・ランプリングに、この新人女優は完璧に位負けしているが、まさにそれ自体がフランソワ・オゾンのたくらみであって、イザベルのおてんばな性春の物語は、この明るい始発駅のベンチでうたた寝して目覚めたらひとり荒涼たる終着駅にいたような、蠱惑的な真昼の怪談のごとき教訓劇で見事にしめくくられる。この後イザベルがどんな道を歩むかは、言うまでももないことだろう。