なでしこJの誤算。カナダにボール支配率で大きく劣った構造的な問題
カナダに1-1で引き分けたなでしこジャパン。目に新鮮に映ったのは、PKを獲得したVARのシーンだった。1点ビハインドで迎えた後半7分、シュートモーションに入ろうとした田中美南がカナダGKと交錯。転倒した瞬間、男子なら直ちに主審に選手が詰め寄り、猛然とPKをアピールしているに違いない。PK判定が下されれば、派手に喜ぼうとするだろう。
しかし、なでしこの面々はVARの結果、PK獲得を告げられても、大喜びしなかった。倒された田中が軽く微笑んだ程度だった。交錯した相手GKが治療に時間を費やしたこともあるが、喜怒哀楽を露わにすることはなかった。
奥ゆかしいと言うか、スレていないと言うか、相手に優しいというか、男子サッカーでは滅多に見かけない控え目な態度に、コロナ禍におけるホストチームの、模範的な姿を見た気がした。
このPKを田中が決めていれば、勝てたのではないかという気もするが、内容的に見て1-1は妥当な結果に見えた。少々意外だったのは、大型チームのカナダも、負けじとパスを回してきたことだ。簡単に蹴ってこないサッカーに、日本は手こずる格好になった。苦戦のほどは、59%対41%というボール支配率に端的に表れていた。
もっとも、この数字を見て驚く人はいるはずだ。パスワークが華麗に見えたのは日本。鮮やかに見えるパスは実際、日本の方が多かったように見えた。だが、確実さという点ではカナダが勝っていた。日本のパスワークは繊細そうに見えたが、そのぶん頼りなく、確実性を欠くように見えた。
「パスを繋ぐサッカー」が、日本ならば、カナダは「パスを運ぶサッカー」となる。日本が人から人へ繋ぐパスワークだったのに対し、カナダはある地点からある地点へ、ボールを確実に運ぼうとした。進むべき場所や方向性を考えながら、陣地を稼ぐ、あるいは挽回するという、陣取り合戦的な発想に基づくパスワークを展開した。ゴールに的確なルートで迫ろうとしたカナダと、日本とでは、同じパスワークでも、大きな違いがあった。
このなでしこジャパンのパス回しを見て想起したのは、ある時代の日本男子サッカーだ。2000年代から2010年代前半。トルシエジャパン、ジーコジャパン、第2次岡田ジャパン、さらにはザックジャパンの時代になる。日本サッカーが技術的に、急激に右肩上がりを示した頃と重なる。
上達した選手が、プレーに自由を欲した時代だ。布陣がさほど重要視されていなかった時代でもある。サッカーは布陣でするものではない。試合が始まれば、布陣はあってないようなものと、世間もそうした声を後押しした。
今回、カナダ戦に臨んだ日本の布陣は4-4-2だったが、その4-4-2は常時かなり崩れた状態にあった。カナダの4-2-3-1の方が断然、鮮明に描かれていた。流動的と言えば聞こえはいいが、動きすぎれば原型は壊れる。どこに誰がいるのか定かではなくなるので、パスの難易度は上がる。運ぶパスワーク、回すパスワークではなく、安定感に欠ける線の細い、繋ぐサッカーに陥り、その結果、ボール支配率で大きく劣ることになった(59%対41%)。
なでしこジャパンの場合は、ボール支配率と成績が、密接に関係していると見る。
高倉監督の采配にもう一つ注文をつけるとすれば、選手交代5人制で行われているにもかかわらず、選手を4人しか変えなかったことだ。今大会、決勝戦、あるいは3位決定戦に進もうとすれば、ほぼ中2日で6試合を戦うことになる。使える選手の数が1人でも多い方が有利になるという短期集中トーナメントの常識が、交代枠5人に増えた今回はとりわけ求められることになる。
同じレギュレーションで行われたユーロ2020でもそれは証明された。グループリーグの3試合を終了した段階で、GKを除くフィールドプレーヤー23人全員を、ピッチに送り込む采配をしたイタリアのマンチーニ監督が、優勝監督に輝いたという事実を見逃すことはできない。
できるだけ多くの選手を起用しながら結果を追求する。代表監督に問われる能力そのものだ。にもかかわらず4人しか使えなかった高倉監督。先行きに不安を覚えずにはいられない。
もう一つ添えるなら、カナダ戦で交代出場に終わった杉田妃和は、どう見てもスタメン級の主力だと思われるが、出し惜しみする理由が理解できない。
いずれにしてもA代表で争われる女子は、U-24で争われる男子よりメダルの価値は重い。緊張感の高い試合が続く。そこで最も不可欠になるのは監督の冷静な目だ。なでしこジャパンの浮沈のカギを握る人物は他でもない監督であることを、ここに改めて強調しておきたい。