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【前編】ウクライナとロシアの宗教戦争:キエフと手を結んだ権威コンスタンティノープルの逆襲

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者
写真:President.gov.ua

コンスタンティノープル総主教ヴァルソロメオス(左)が、独立教会のトモスを、エピファニウス氏に手渡す。儀典上、キエフ(キーウ)総主教が独立した瞬間である。2019年1月6日。

「ロシアがウクライナで行っている戦争は、宗教的なものでもあります」。

歴史家のアントワーヌ・アルジャコフスキー氏は分析する。

2018年12月、キリスト教の正教会に、大激震となる出来事が起きた。

ウクライナの首都キエフ(キーウ)で開催された協議会によって、ウクライナ正教会の独立が決まったのである。

それまでウクライナ正教会は、ロシア正教会に属していた。330年以上も。それを、正教会の中で最も象徴的な権威をもつコンスタンティノープル正教会が、独立を認めたのだった。

ウクライナの信者をモスクワ総主教の直接の監督下に置くという勅令がくだされたのは、1686年のことだ。それを「撤回」したのだった。

既に2カ月前の10月、承認が発表されていた。モスクワ総主教庁は、この承認に反発し、コンスタンティノープルとの関係を断絶した。

以下、アルジャコフスキー氏が『ル・モンド』紙のインタビューに答えた記事を中心に据え、同紙の他の記事を参照し加えながら、筆者が再構成した内容を、わかりやすい言葉にして、別資料から説明を足しながら説明したい。

キリル総主教と同じ考えのプーチン大統領

キリスト教は、大きく分けて3つある。

カトリックはローマ教皇を頂点とするピラミッド型、プロテスタントはそういうものを排除。その両方と異なり、正教会ーー東方正教会ともギリシャ正教会とも呼ばれるーーは、おのおのに独立した対等な総主教がいる。

ロシアとウクライナは、主に正教会に属する地域である。

ローマ帝国以来、「五本山」と呼ばれる存在の教会がある。ローマ、コンスタンティノープル(現トルコ内)、アレクサンドリア(現エジプト内)、アンティオキア(現シリア内)、エルサレム(現イスラエル内)である。

このうちローマは、ローマ=カトリックとして別の道を歩み、ほかの四つはギリシャ正教となり、四つはそれぞれが総主教となった。

後代の総主教はブルガリア、グルジア、セルビア、ルーマニア、そして最大のモスクワがある。

モスクワ総主教のキリル氏は、2009年に即位した。そして「ロシア世界」のイデオロギー信奉者となった。

彼の帝国主義的な考え方では、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの国家は同じものであり、その中心はモスクワにある、となる。

だから彼にとっては、ウクライナの教会も、従来どおりロシア教会に属する立場でなくてはならない。実際これまでは、独立教会と認められているロシア正教会のリーダーは「総主教」だが、ウクライナ正教会のリーダーは、位が下の「府主教」であった。

この見解は、2月21日のプーチン大統領の言葉と同じである。

2021年4月21日モスクワで、プーチン大統領の連邦議会での年次演説を聞くキリル総主教。
2021年4月21日モスクワで、プーチン大統領の連邦議会での年次演説を聞くキリル総主教。写真:ロイター/アフロ

プーチン大統領は、ウクライナは独立国家としての正当性がなく、ロシアの軌道に戻すべきだと主張した。「我々にとって、ウクライナは単なる隣国ではなく、我々の歴史、文化、精神空間の不可分の一部だ」という彼の言葉は、そのままキリル氏の考えが反映されている。

参考記事(プーチンの基本的考えがわかる):プーチン大統領は国民にいかに「ウクライナ侵攻」の理由を説明したのか【1】1時間スピーチ全文訳

参考記事(宗教について述べている):【その3】プーチン大統領は国民にいかに「ウクライナ侵攻」の理由を説明したのか:1時間スピーチ全文訳

キリル氏は、ウクライナ戦争が始まって数日後の2月27日、「ロシアとロシアの教会の統一に常に反対してきた」者たち、つまりプーチン大統領の計画に反対するウクライナ人を「悪の勢力」と表現し、大々的に説教したのである。

キリル総主教。モスクワの救世主キリスト大聖堂で、復活祭の礼拝を執り行う(2019年4月28日)
キリル総主教。モスクワの救世主キリスト大聖堂で、復活祭の礼拝を執り行う(2019年4月28日)写真:ロイター/アフロ

キリル氏は、クリミア併合やシリアのアレッポ空爆など、常にプーチン大統領の政策に揺るぎない支持を示してきた。

モスクワ総主教の意味論によれば、ウクライナへの侵攻は、正教を分裂させた、あの上長(=ロシア正教会)を拒否する教会であるウクライナ教会を含む、悪の帝国からの防衛であり、コンスタンティノープル総主教の決定による侵略から、我が身を守るための方法となる。

このように、教会に関する2つの概念が衝突しており、宗教的・教会学的な要因が、ウクライナとロシアの対立の主な原因の一つとなっているのである。

複雑な二つのモデル

新しいウクライナの独立教会は、同国の指導者たちにとって、どのような政治的な道具にもなっているのだろうか。

この教会は、民族性重視主義者ではない基礎で、国民感情を作り出そうとしている。つまり、「ウクライナ国民」という概念であり、それは民族主義とまではいかないということだ。

逆に、キリル総主教が掲げるロシアの世界観の問題は、キエフ・ルス(キエフ大公国)からプーチンのロシアまでの記憶と民族の連続性に基づいていることである。

この純粋に神話的な概念は、帝国の建設を支えるのに、役に立つだけである。

ただ、ウクライナの対抗モデルは、民族主義とはまではいかないにしても、言語的および文化的な分断を克服しようとしている現代の国民国家のモデルに反してはいる。

このウクライナ正教会は、わずか43歳のエピファニウス氏が率いている。キリル氏が75歳なのと対照的である。

2019年10月23日、ワシントンDCの米国務省で、ポンペオ国務長官(当時)がウクライナ正教会のエピファニー総主教と会談。写真:U.S. Department of State
2019年10月23日、ワシントンDCの米国務省で、ポンペオ国務長官(当時)がウクライナ正教会のエピファニー総主教と会談。写真:U.S. Department of State

キリル氏は侵攻を祝福しているが、エピファニウス氏はここ数日(3月初頭)、彼に宛てて、少なくとも亡くなった兵士を送還し、尊厳を持って埋葬するように求めている。

この非常に強い声明は、明らかにロシア国家に恥をもたせると同時に、モスクワ教会の良心を目覚めさせ、ウクライナ国民の結束に貢献することを意図している。

参考記事(読売新聞):ロシア軍死者を秘密裏移送か…白カーテンで覆われた車両、ベラルーシに次々到着

現在の正教会の分裂はどこから来ているのか

ここから、いにしえの昔の歴史をたどってみたい。

キリスト教の歴史は長いので、歴史をたどらないと今の争いが理解できないのだ。

7世紀以降になると、五本山のうち、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアの三教会が、いずれもイスラム教の国の支配下に入って衰えてしまった。

残ったローマとコンスタンティノープルの二教会が、激しく首位権を争うようになった。

8世紀に聖像崇拝問題を巡って、東西両教会は対立するようになり、最終的に1054年、ローマ=カトリック教会とギリシア(東方)正教会として分離した。

西のローマ=カトリック教会は、西欧の国々との関係の中にあり、東のコンスタンティノープル正教会は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の庇護のもとにあった。コンスタンティノープル、今の名前でイスタンブールは、東ローマ帝国の首都であった。

(ローマ帝国は395年に東西に分裂。西ローマ帝国は、それから1世紀も経たないうちに滅び、今の西欧の国々のルーツとなる国々が興っていった。一方、東ローマ帝国は、千年以上も続いたのだった)。

キエフ公国の最大版図。ヤロスラフ1世の死後1054年。地図:Vitaliyf261作
キエフ公国の最大版図。ヤロスラフ1世の死後1054年。地図:Vitaliyf261作

さて、9世紀には、東スラブ人が形成した最初の国家、キエフ・ルス(キエフ大公国)が生まれている。

キエフ大公国の版図は、大まかに今の地域で言うと、ウクライナの北半分程度、ベラルーシ、その上(北)の部分のロシアの地域であった。

キエフ正教会は、988年に最初に伝道された教会であり、スラブ地域のキリスト教会の原点である。

最初の転機は1240年である。タタールの侵攻によって、キエフ公国が滅んでしまった時である。北と東はイスラムのハーン(イスラム教)の支配下に、南と西はポーランド・リトアニア(カトリック)の支配下に置かれたのだ。

その後、キエフの本拠地は分裂し、キエフの府主教(総主教より下位)はモスクワ大公国に、別のものがリトアニアに、そして再び新たにキエフに置かれることになった。

モスクワ大公国は、のちのロシアである。ロシアは、滅んでしまったキエフ公国の継承者を自負してきた。

15世紀、新たな転機が訪れた。

正教会は、ビザンチン(東ローマ)帝国に保護されていた。しかし、イスラム教の国であるオスマン・トルコ帝国の脅威が迫ったのである。

オスマン帝国に対抗するために、東西のキリスト教徒間の統一を話し合おうと、「フィレンツェ公会議」を開催した。しかし、モスクワの大公は、参加を拒否したのである。ただし、ウクライナ(キエフ)の正教会は、会議を受け入れていた。

このような激動の時代に、モスクワ教会は1448年に独立を宣言したのである。

モスクワとコンスタンティノープルの争いは、既にこの頃から始まっていて、細かいことに見えるかもしれないが、キエフの立場は注目するべきだと言えるだろう。

そして、それから数年後の1453年、オスマン・トルコとの戦争に破れ、千年以上続いたビザンチン(東ローマ)帝国は滅びてしまった。オスマン・トルコは、首都コンスタンティノープルの名前を、イスタンブールと変えた。

このことは、帝国の首都に存在していたコンスタンティノープル総主教庁に、大打撃を与えたのである。

どのように二者は対立しているか

コンスタンティノープル総主教庁は、正教会の歴史的な発祥の地である。

それゆえに、正教会の世界を象徴する力を持っている。

1054年の西方キリスト教会(ローマ=カトリック教会)と、東方の正教会の分裂以来、コンスタンティノープルは、「対等な第一人者」となっている。

その権威はあくまでも精神的・道徳的なものであり、ローマ=カトリックのように、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型ではない。異なる総主教庁や各正教会は独立して組織されている。

だから「対等」なのであるが、発祥の地としての権威をもっているので「第一人者」なのである。

20世紀になると、1923年にトルコ共和国が誕生し、ほとんどのギリシャ人が国外に追いやられてしまった。

そのためコンスタンティノープルには数千人の信者がいるに過ぎない。ギリシャの一部と、西欧を中心としたディアスポラ(離散した者)の一部の教会を管轄している。

イスタンブールのアヤソフィア。元はコンスタンティノープル総主教庁の所在地の大聖堂だったが、オスマン・トルコの支配後、次第にイスラム教のモスクに改築された。
イスタンブールのアヤソフィア。元はコンスタンティノープル総主教庁の所在地の大聖堂だったが、オスマン・トルコの支配後、次第にイスラム教のモスクに改築された。写真:アフロ

それに対するのが、ロシアの権力に近いモスクワ総主教庁である。

世界の正教会の約半数を束ね、キリスト教文明の新しい中心である「第三のローマ」を長い間自負してきた。

ここでいう「第三」とは、一番目が古代ローマ(ローマ帝国)、二番目が東ローマ(ビザンチン)帝国、その次の三番目という意味である。

政治的には、東ローマ帝国の最後の皇帝の姪であり、その前の皇帝の孫であるゾイ・パレオロギナが、モスクワ大公イヴァン3世と結婚したからである。彼女は、ビザンチン帝国の文化を、モスクワにもたらしたと言われている。

ただ彼女は、滅びゆくとはいえ、帝国のお姫様だった時代に結婚したわけではない。帝国は滅び、彼女はローマに亡命していた。その時代に、モスクワ大公との

縁談がもちこまれたのである。

モスクワの聖ワシリイ大聖堂
モスクワの聖ワシリイ大聖堂写真:アフロ

長い時を経てソビエト連邦の時代には、共産主義体制下で、宗教は否定された。1991年にソ連が崩壊すると、正教会が復活した。

このようなキリスト教において、「1000年に一度の大分裂」をもたらすことになるのが、2014年のクリミア併合と、キエフ(キーウ)正教会の独立であった。

【後編】に続く

宗教の境界で三分するウクライナと「千年に一度のキリスト教界の分裂」:ロシアとの宗教対立

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。元大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省機関の仕事を行う(2015年〜)。出版社の編集者出身。 早稲田大学卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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