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プーチン大統領は国民にいかに「ウクライナ侵攻」の理由を説明したのか【1】1時間スピーチ全文訳

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
ビデオメッセージの画像(写真:ロイター/アフロ)

プーチン大統領が2月21日の夜、ロシア国民に向けて、テレビで約1時間演説を放送した。生放送ではなく、ビデオ演説だったという。

自称「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」を国家承認する際に行われたものだった。

これは「ロシア国民に向けた、ウクライナ侵攻の説明」と思って良いだろう。

歴史上、大変重要な演説だと思うので、ここに全訳を載せる。プーチン大統領の歴史観や価値観、心のあり方がわかって、大変興味深いものでもある。

何と言ってもロシアは、日本の隣国だ。命令一つで、世界でも有数の強力な軍隊を動かせる、表情がほとんどない隣国の独裁者が、何を考えている人なのか、どういう思考をする人なのかを知るのは重要だろう。

もとの文章は、クレムリンの公式サイトが発表している、英語の書き起こし文章である。しばらくの間、サイトの文章は「続く(to be continued)」の状態で、全文の書き起こしが終わっていなかった。本当に続くのか、政治上の理由で止まっているのか、わからなかった。

無事に全文が掲載されたので、ここに数回に分けて訳して掲載したい。なにせ長い。英語で約4万6400語もある。

日本では国のリーダーが国民にテレビ演説する機会がないのでピンとこないかもしれないが、一般的に1時間は、べらぼうに長いことはお伝えてしておきたい。

ちなみに、日本の政見放送の「演説」は、衆議院選挙で1回9分、参議院と知事は5分30秒である。

このプーチン氏の演説について、フランス公共放送は「演説の4分の3は歴史の講義」、仏『ル・モンド』紙は「積年の恨みつらみ」と描写している。

最初のほうのプーチン版歴史解説は、相当勉強した人や歴史好きでも「???」だと思うので、そういう部分は斜め読みか飛ばして良いと思う。

(そういう筆者も、仏語同時通訳がついた映像を見ていたとき、「歴史の講義」の途中で寝そうになったことを白状しておく)。

【追記】全部で6回の長編になってしまったが、最初のソ連時代の歴史のところは特にわかりにくく、後半にいくにつれ、わかりやすくなっていく。

あくまでロシア政府の公式英訳なので、もしかしたらロシア語が理解できる方が見ると、実際のロシア語演説とはニュアンスが変わっていたり、削除や変更などがあったりする箇所があるのかもしれない。専門家の方でお気付きの点があったら、ご連絡いただければ幸いです。

それと余談で恐縮だが、筆者は日本の学生時代、日露学生会議と、早稲田大学のロシア&東欧の交流サークルに入っていて、日本にいるロシア人学生と交流したり、ロシアに学生交流団として赴いたりしたことがある。好きな歌手のなかにヴィソツキーがいる。

前置きが長くなったが、それではご覧ください。

【2月25日の追記】

いま「2」まで訳の公開が終わっていますが、「長い」「複雑すぎる」という声が寄せられています。全部の翻訳が終わったところで、1回で読める柔らかい言葉にした「ダイジェスト版まとめ」を書こうかと思っています。来週になると思います。 

→ すみません。これをダイジェストにするのは、私の手に余ると打ちのめされました。それに飛ばし読みや斜め読みでも全然構わないので、全部を見ていただくほうが、より多くのことが伝わると思います。

しかし、これを聞かされたロシア国民の気持ちやいかに・・・。

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<ウラジーミル・プーチン大統領 ビデオメッセージ 2022年2月21日>

ロシアの市民の皆様、友人の皆様。

私の話は、ウクライナでの出来事についてです。そしてこれがなぜ我々ロシアにとって重要なのかについて、お話しします。もちろん私のメッセージは、ウクライナにいる我々の同胞にもお話するものです。

この問題は非常に深刻であり、深く議論される必要があります。

ドンバスの状況は、危機的で、深刻な段階に達しています。本日、私があなたがたに直接お話しするのは、現状を説明するだけでなく、決定される事項や今後のステップの可能性をお伝えするためです。

ウクライナは我々にとって、ただの隣国ではないことを改めて強調したい。私たち自身の歴史、文化、精神的空間の、譲渡できない不可分の (inalienable) 一部なのです。我々の同士であり、我々のもっとも大切な人々なのです。同僚や友人、かつて一緒に兵役に就いた人たちだけでなく、親戚や血縁、家族の絆で結ばれた人たちなのです。

太古の昔から、歴史的にロシアの地であった場所の南西部に住む人々は、自らをロシア人と呼び、正教会のキリスト教徒と呼んできました。17世紀にこの地の一部がロシア国家に復帰する以前も、その後もそうでした。

一般的に言って、このような事実は、我々誰もが知っていると思われます。これらは常識です。それでも、今日何が起こっているかを理解し、ロシアの行動の背後にある動機と我々が達成しようとする目的を説明するためには、この問題の歴史について、少なくともいくつかの言葉は述べておく必要があります。

そこでまず、現代のウクライナはすべてロシア、より正確にはボルシェビキ、共産主義ロシアによってつくられたものであるという事実から説明します。このプロセスは実質的に、1917年の革命の直後に始まり、レーニンと仲間は、歴史的にロシアの土地であるものを分離し、切断するという、ロシアにとって極めて過酷な方法でそれを行いました。そこに住む何百万人もの人々に、彼らがどう思うか尋ねた人はいませんでした。

その後、大祖国戦争(第二次世界大戦)の前と後の両方で、スターリンは、ソ連に編入されたが、以前はポーランド、ルーマニア、ハンガリーに属していたいくつかの土地をウクライナに編入しました。 その過程で、スターリンはポーランドに補償として、伝統的にドイツの土地だった一部を与え、1954年にフルシチョフはクリミアを、何らかの理由でロシアから取り、ウクライナに与えました。 事実上、こうして現代ウクライナの領土が形成されたのです。

1917年の10月革命とそれに続く内戦の後、ボルシェビキは新しい国家の創設にとりかかったことを思い出していただきたい。この点については、彼らの間でかなり深刻な意見の不一致がありました。

1922年、スターリンはロシア共産党(ボルシェビキ)書記長と、民族問題人民委員会の会長を兼任していました。彼は、自治の原則に基づいて国を建設することを提案しました。つまり、統一国家に参加する際に、将来の行政・領土の実体となる各共和国に、広範な権限を与えるということです。

レーニンはこの計画を批判し、当時彼が「無党派・独立派 (independents)」と呼んでいた民族主義者(ナショナリスト)に譲歩することを提案しました。

レーニンの、本質的にひとつの連邦国をどのように配置するかという考えと、最大では分離にすら至る、自分の国のことは自分で決めるという国家の権利 (the right of nations to self-determination) についてのスローガンは、ソビエト独立国の基盤に置かれました。

それは、1922年のソビエト連邦成立宣言で確認され、のちに、レーニンの死後、1924年の「ソビエト憲法」に刻まれました。

このことは、直ちに多くの質問を投げかけます。最初の質問は本当に主要なものです。なぜ民族主義者(ナショナリスト)をなだめる必要があったのか。旧帝国の周辺部で絶え間なく高まっていく民族主義者の野心を満たす必要があったのか。新しく、しばしば恣意的に形成された行政単位、ソ連の共和国諸国 (the union republics) に、彼らとは何の関係もない広大な領土を移譲する (transferring) ことに何の意味があったのでしょうか。

繰り返しになりますが、これらの領土は、歴史的にロシアであったところの人々とともに移譲されました。

しかも、これらの行政単位は、事実上、国民国家 (national state) の独立した存在の地位と形態を与えられていました。このことは別の質問を提起します。なぜ、これほどまでに、最も熱狂的な民族主義者の夢を超えた贈り物をする必要があったのでしょうか。そして何より、共和国たちに、無条件で統一国家から離脱する権利を与える必要があったのでしょうか。

一見すると、これはまったく理解できないように見えます。狂気の沙汰 (crazy) にさえ見えます。しかし一見しただけです。説明があるのです。 革命後、ボルシェビキの主な最終目標は、あらゆる犠牲を払って、絶対にあらゆる犠牲を払って、権力を維持することでした。彼らはこの目的のためにすべてを行いました。屈辱的なブレスト・リトフスク条約を受け入れました。帝国ドイツと同盟国の軍事および経済状況は劇的であり、第一次世界大戦の結果は必然的なものでしたが。そして国内の民族主義者のどんな要求や希望も満足させたのでした。

ロシアとその国民の歴史的運命に関して言えば、レーニンの国の開発の原則は単なる間違いではありませんでした。ことわざにあるように、間違いよりもひどいものだったのです。 これは1991年にソビエト連邦が崩壊した後に明らかになりました。

もちろん、過去の出来事を変えることはできませんが、少なくとも、我々は何の疑念も政治的な工作もなく、公然と正直にそれらを認めなければなりません。個人的に付け加えられるのは、どのような政治的要因も、その時々にいかに印象的に、または有益に見えるかもしれなくても、独立国の基本原理として使用できる、または使用できるかもしれないものは、一つもないのです。

私は誰にも責任を負わせようとはしていません。当時、内戦の前や後のこの国の状況は極めて複雑でした。危機的な状況だったのです。私が言いたいのは、まさにこのような状況であったということだけです。それは歴史的な事実です。

実際、私がすでに言ったように、ソビエト・ウクライナはボルシェビキの政策の結果であり、正しくは「ウラジーミル・レーニンのウクライナ」と呼ぶことができます。 彼はその創作者および建築家 (creator and architect) でした。

これは、記録保管所の文書によって、完全かつ包括的に裏付けられています。実際にウクライナに押し込まれたドンバスに関するレーニンの厳しい指示を含んでいます。

そして今日「恩を感じる子孫 (grateful progeny) 」はウクライナのレーニンの記念碑を倒しました。彼らはそれを脱共産化と呼んでいます。

あなた方は非共産化を望むのですか。よろしいでしょう、これは我々にあっています。しかし、なぜ途中で停止するのですか。我々は、本当の非共産化がウクライナにとって何を意味するかを示す用意があります。

歴史に戻るなら、1922年に旧ロシア帝国のあとにかわってソビエト連邦が設立されたことを繰り返したいと思います。しかし、実践によってすぐに示されたのは、このような広大で複雑な領土を、連邦に相当する一定の形をもたない原則 ( amorphous principles) で維持することは不可能だったということです。それらは、現実からも歴史的な伝統からもかけ離れていました。

赤色テロとスターリンの独裁への急速な転落 (slide) 、共産主義イデオロギーの支配、そして共産党の権力独占、国有化、そして計画経済の独占、これらすべてが、正式に宣言されたものの、効果のない政府の原則を単なる宣言に変えてしまったことは、論理的なことです。

実際には、ソ連の共和国たちには主権の権利はない、まったくありませんでした。 実質的な結果は、緊密に中央集権化された、絶対的な単一国をつくり上げることでした。

実際、スターリンが完全に実施したのは、レーニンではなく、彼自身の統治の原則でした。しかし、彼は基礎文書や憲法に関連する修正を加えず、ソビエト連邦の基礎となるレーニンの原則を正式に改訂していませんでした。見たところ、その必要はないようでした。なぜなら、全体主義体制の条件下では、すべてがうまく機能しているように見え、外見上は素晴らしく、魅力的で、超民主的でさえあるように見えたからです。

しかし、我々の国の基本的かつ正式に合法的な基盤が、醜悪な (odious) ユートピア的幻想からすぐに浄化されなかったのは、非常に残念なことです。それは革命に触発されたものであり、普通の国にとっては絶対的に破壊的なものです。以前に我々の国でよくあったことですが、誰も将来のことを考えませんでした。

共産党の指導者たちは、彼らがしっかりとした統治システムをつくり上げ、彼らの政策が民族問題を永久に解決したと確信していたようです。しかし、歪曲、誤解、世論の改ざんには高い代償を払います。民族主義者(ナショナリスト)の野心のウイルスは、まだ我々とともにあります。ナショナリズムの病気に対する国家の免疫を破壊するために、初期の段階に置かれた地雷は、カチカチ音をたてていました。 私がすでに言ったように、地雷はソビエト連邦からの離脱の権利でした。

1980年代半ば、社会経済的な問題の増大と、計画経済の明らかな危機が、民族問題を悪化させました。これは本質的にソビエト人民の期待や満たされていない夢に基づくものではなく、主に地元のエリートの高まる欲求に基づくものでした。

しかし、共産党指導部は、状況を分析し、適切な対策を講じ、まず経済において、また政治体制と政府を十分に考慮し、バランスのとれた方法で徐々に変革する代わりに、自分の国のことは自分で決める権利 (national self-determination) というレーニンの原則の復活について公然と二枚舌を振るうだけだったのです。

さらに、共産党内の権力闘争の過程で、反対側の各派それぞれが、支持基盤を拡大するために、民族主義的な感情をよく考えないで扇動し、操作し、彼らを操作し、潜在的な支持者に、彼らが望むものは何でも約束をしたのです。

民主主義や市場経済や計画経済に基づく明るい未来について、表面的で大衆的(ポピュリスト的)なレトリックを背景に、しかし人々の真の窮乏化と広範囲にわたる欠乏の中で、権力者の誰一人、この国にとって、避けられない悲劇的な結末について考えていなかったのです。

次に、彼らはソ連邦発足時に殴打された路線に全面的に乗り出し、党内のランクの中で育まれた民族主義的エリートの野心に迎合したのである。

しかしそうすることで、彼らはソ連共産党がもはや権力と国そのものを保持するための手段、国家テロやスターリン的独裁の手段をもはや持っていないことを、神様ありがとうございます、そして悪名高い党の指導的役割が、彼らの目の前で朝靄のように跡形もなく消えつつあることを忘れてしまったのである。

そして、1989年9月のソ連共産党中央委員会の本会議では、真に致命的な文書、いわゆる現代の状況における党の、いわゆる民族政策、ソ連共産党プラットフォームが承認されました。 それには次の複数の条項が含まれていました。「ソ連の各共和国は、社会主義の主権国としての地位にふさわしいすべての権利を有するものとする」。

次のポイントは「ソ連の各共和国の最高権力代表機関は、彼らの領土において、ソ連政府の決議と指令の運用に異議を唱え、停止することができる」である。

そして最後に「ソビエト連邦の各共和国は、すべての居住者に適用される自身の市民権を有するものとする」。

これらの公式や決定が何につながるかは、明らかだったのではないでしょうか。

今は、国の法律や憲法に関連する問題に取り掛かったり、市民権の概念を定義したりする時間や場所ではありません。しかし、不思議に思うかもしれません。ただでさえ複雑な状況で、なぜ国を動揺させる必要があったのでしょうか。事実は変わりません。

ソ連が崩壊する2年前には、その運命は実は決まっていました。今、急進派や民族主義者たちが、主にウクライナの人々を含むが、独立を果たしたと自分たちの手柄にしています。ご覧のとおり、これは絶対に間違っている。

我々の統一国家の崩壊は、ボルシェビキの指導者とソ連共産党の指導の側の、歴史的で戦略的過ち、国家建設と経済および民族政策において、異なる時期に犯された過ちによってもたらされたものである。ソ連として知られる歴史的なロシアの崩壊は、彼らの良心にのしかかっています。

これらすべての不正、嘘、そしてロシアからの完全な略奪にもかかわらず、ソ連の崩壊後に形作られた新しい地政学的現実を受け入れ、新しい独立国群を認めたのは我々の人民でした。

ロシアはこれらの国々を承認しただけでなく、自国が非常に悲惨な状況に直面していたにもかかわらず、CIS(独立国家共同体)のパートナーたちを支援しました。この中には、独立を宣言した瞬間から何度も財政支援を求めてきたウクライナの仲間も含まれていました。我々の国は、ウクライナの尊厳と主権を尊重しながら、この支援を提供しました。

専門家の評価によれば、経済・貿易上の希望にそってロシアがウクライナに提供した補助金付き融資、エネルギー価格を単純に計算すると、1991年から2013年までの期間に、ウクライナの予算が受けた利益は、全体で2500億ドル(約28兆7500億円)に上ることが確認されました。

しかし、それだけではありませんでした。 1991年の終わりまでに、ソ連は他の国と国際基金に約1000億ドル(約11兆5000億円)を借りていました。 当初、すべての旧ソビエト共和国は、連帯の精神で、各共和国の経済的可能性に比例して、これらのローンを一緒に返済するという考えがありました。 しかし、ロシアはすべてのソ連の債務を返済することを約束し、2017年にこのプロセスを完了することで、約束を果たしました。

それと引き換えに、新たに独立した国々は、ソビエトの対外資産の一部をロシアに渡さなければなりませんでした。ウクライナとは、1994年12月その旨の合意が成立しました。しかし、キエフはこれらの合意の批准に失敗し、後に、ダイヤモンド宝庫や金準備高、同様に旧ソ連の財産や海外資産の分配を要求しますが、合意の履行は拒否するばかりでした。

<生臭い話になったところで、2に続く>

◎筆者が気になったところ

何度も「自分の国のことは自分で決める権利」について話している。

これは国連憲章の第1章第1条にのっている文言で、今回のウクライナ問題を考える上で、重要な思想である。

プーチン氏流の解釈を述べているところに、興味をひかれた。

参考記事:ウクライナが直面する「自国の運命は自分たちで決める権利」の厳しさ。アメリカの陽とロシアの陰

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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