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【後編】宗教の境界で三分するウクライナと「千年に一度のキリスト教世界の分裂」:ロシアとの宗教対立

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
3月13日ロシアの攻撃が続く中キーウの聖アンドリーイ教会で日曜礼拝に参加する人々(写真:ロイター/アフロ)

【前編】ウクライナとロシアの宗教戦争:キエフ(キーウ)と手を結んだ権威コンスタンティノープルの逆襲の続きです>

東ローマ帝国滅亡という、正教の大転機

後編のアップが遅くなってすみません。

まずは前回の複雑な内容を改めて整理して、おさらいしてみたい。

1453年、ビザンチン(東ローマ)帝国の滅亡は、正教会の世界に大きな影響を与えた。

正教会の最大の庇護者が、イスラム教の国であるオスマン・トルコに滅ぼされてしまったのだ。

ローマ帝国以来、「五本山」と呼ばれる五つの大きな教会があった。ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムである。

1054年には、ローマ教皇を頂点とするローマ=カトリック教会と、他の四つが属するギリシア(東方)正教会の二つに分離した。

しかし、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアは、7世紀以降、いずれもイスラムの支配下に入って既に衰えてしまっていた。残ったのはビザンチン(東ローマ)帝国の首都、コンスタンティノーブルの教会だけだった。

WikipediaよりTrecătorul răcit作。日本語と強調は筆者
WikipediaよりTrecătorul răcit作。日本語と強調は筆者

五本山の地図(1000年)。白い部分:イスラム勢力により征服。白い線:イスラム勢力によって一時的に占領。矢印:800年以降の拡大。月に星のイスラムの印は、イスラム世界の領域になったことや侵攻を示す。

ローマ=カトリックとコンスタンティノーブルの正教会は、首位の座を争っていた。しかしここに、ビザンチン(東ローマ)帝国を脅かす、イスラム教の帝国であるオスマン・トルコが勢力を拡大してきた。

そのため、西のローマ=カトリックと東の正教会では、東西キリスト教徒を合同して敵に対抗しようという動きがあった。ここで重要な会議は、1430年代の「フィレンツェ公会議」というものである。

しかし、間もなくのちの1453年、結局首都コンスタンティノープルは陥落、オスマン・トルコの支配下に入ってしまったのだった。

こうして、古来より存在する四つの正教の総主教庁の所在地は、すべてイスラム世界の支配下に入ってしまった。

そのような時代のことであった、モスクワ教会が独立を宣言したのは。千年以上続いた東ローマ(ビザンチン)帝国が滅亡する5年前、1448年のことだ。

大打撃を受けたコンスタンティノーブル総主教庁だが、ロシア正教会のリーダーの選出が権威コンスタンティノープルによって受け入れられたのは、帝国が滅亡してから100年以上も経った、1589年のことであった。

政治的に大打撃でも、権威だけは保持しているコンスタンティノープル総主教は、各地域の教会が独立する権利を、次第に承認していった。セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、チェコ、スロバキアなどである。

時が経つにつれ、モスクワ教会は、「姉」のキエフよりも力を持つようになった。モスクワ大公国はモスクワ帝国となり、やがてロシア帝国となり、現ウクライナの領土を支配するようになる。

モスクワに依存するようになるキエフ教会

転機は、東ローマ(ビザンチン)帝国が滅亡してから約200年後にやってきた。

1686年に、モスクワは、スラブの正教会の世界全体を自らのもとに統合することを意図して、コンスタンディノープル総主教から、キエフの府主教(総主教より下位)の選挙を承認する権利を取得することに成功した。

ただし、その条件は、キエフはコンスタンティノープル総主教を「対等の第一人者」とみなし続けることだった。

しかし、キエフの府主教は、次第にコンスタンティノープル総主教から離れ、モスクワに完全に依存するようになった。この関係は20世紀まで330年以上も続いたのである。

このような背景には、政治の事情が大きく作用する。モスクワがキエフの府主教の選挙を承認する権利を得たのは、ピョートル1世の時代である。

ピョートル1世の時代、1700年のロシアの版図。WikipediaよりGabagool作
ピョートル1世の時代、1700年のロシアの版図。WikipediaよりGabagool作

この皇帝は「大帝」と呼ばれている。1682年に即位。ロシアを西欧化し、海軍を創設し、首都をモスクワから遷都して、バルト海に面するサンクトペテルブルクに置いた。

ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げた人物である(ただし彼は、教会の忠実な子羊とはとても言えない人物だったが)。

コンスタンティノープル総主教は、まだ権威はもっていた。しかし、実際の力では、政治力といい信者の数といい、モスクワ教会にかなわなくなっていったのだ。

まるで、京都と江戸の関係のようだ。

キエフ(キーウ)正教会が、現在に独立することの意義とは

そして今「千年に一度のキリスト教世界の大分裂」という状態になっている。

それが、コンスタンティノープル総主教ヴァルソロメオスによる、ウクライナ正教会の独立の承認である。2019年のことだ。1686年の取り決めを無効にしたのだ。

これはモスクワに対する「コンスタンティノープルの逆襲」と言っていいだろう。

このヴァルソロメオス総主教の決断は、いくつかの問題に対応している。

ソ連が崩壊して1991年にウクライナが独立して以来、モスクワの教会に反抗するウクライナの2つの教会が、独立教会になることを求めていた。当時、総主教は常にこれを拒否していた。

しかしヴァルソロメオス氏は、モスクワが公認しないウクライナ正教会の活力に、感銘を受けたのである。

さらに彼は、「モスクワと全ロシアの総主教」の不在に深く苛立っていた。モスクワのために、ブルガリア、グルジア(現ジョージア)、アンティオキアの総主教も、2016年にクレタ島で開かれた正教会評議会に不参加だったのである。

この準備会合は50年前(!)に始まっていた。

ちなみに、準備期間の前半は、共産主義の時代であり、「宗教は麻薬」とみなされた。ソ連崩壊後には、宗教が復活した。

2000年4月、プーチン次期大統領が、キエフのペチェルスク・ラブラ修道院を訪問。教会内のイコンにキスをしている。総主教と面会後、隣国ウクライナとの関係を新たなレベルに引き上げたいと述べた。
2000年4月、プーチン次期大統領が、キエフのペチェルスク・ラブラ修道院を訪問。教会内のイコンにキスをしている。総主教と面会後、隣国ウクライナとの関係を新たなレベルに引き上げたいと述べた。写真:ロイター/アフロ

コンスタンティノープル総主教にとっては、「不参加」という屈辱の状況に、2014年のクリミア併合と、ドンバスの分離主義に象徴されるウクライナ情勢が加わったのである。

ヴァルソロメオス総主教は、ウクライナの教会の事情に介入することを決めた。ウクライナの正教会の独立を認めたのである。

ウクライナ正教会は、現在、モスクワに次いで2番目に大きい教会になっている。信者数は極めて重要である。だからこそ、正教会の統治の危機のきっかけとなったのである。

15世紀半ばに東ローマ(ビザンチン)帝国が滅んで、首都コンスタンティノープルが名実ともに無くなってしまって以来の、正教会世界の大激変と言えるのだろう。

また、「キリスト教世界の千年に一度の大分裂」と呼ばれることがあるのは、おそらく、1054年にキリスト教がローマ=カトリック教会とギリシア(東方)正教会の二つに分離して以来、という意味ではないかと思う。

ウクライナに存在する2つの正教会

現在、ウクライナには二つの正教会が存在する。

一つは、反モスクワ体制派の二教会をまとめて独立したウクライナ正教会、もう一つは従来どおりモスクワ総主教庁に依存するウクライナ正教会の二つである。

コンスタンティノープル総主教の決定は、ウクライナの政治権力にとっては勝利であった。ウクライナの聖職者や共同体は、どちらに忠誠を誓うのか、選択しなければならなくなった。

モスクワに依存するほうは、約500万人の信者をもち、小教区の数が最も多い。

しかし、この教会は保守主義に苦しんでいる。礼拝は古代スラヴ語で行われている。これは、西欧人のラテン語に相当する古典語だ。

また、ロシアがウクライナに対して敵対的な態度を示しているため、若者から遠ざかっているという問題を抱えている。

実際に、モスクワ総主教キリルが、プーチン大統領が体現する政治権力と連携したことで、クリミア併合やドンバス戦争以降は、多くのウクライナ人信者がモスクワから離れ、キエフ(キーウ)総主教庁に参加するようになった。

ウクライナ信者のキリル氏への信頼度は、2010年の44%から2018年には15.3%に低下している。

オヌフリイ府主教。モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会を率いる。77歳。聖職者の息子としてチェルノフツィに生まれる。Wikipediaより。
オヌフリイ府主教。モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会を率いる。77歳。聖職者の息子としてチェルノフツィに生まれる。Wikipediaより。

一方、1500万人の信者を擁するキエフ(キーウ)独立教会のほうは、ウクライナ語で礼拝が行われ、より若く、よりダイナミックである。

しかし、政治権力に近すぎるという批判があり、特にポロシェンコ前大統領に近い。彼は、2018年から2019年にかけて、独立教会の承認を得るためにあらゆることを行ったのである。

(そのことを彼は再選のために大統領選でアピールしたにも関わらず、落選。当選したのは、宗教には実践的ではないユダヤ系のゼレンスキー氏だった)。

エピファニウス総主教。オデッサ州のヴォウコヴェに生まれた。43歳。Wikipediaより
エピファニウス総主教。オデッサ州のヴォウコヴェに生まれた。43歳。Wikipediaより

もうひとつの難問、ギリシャ・カトリック教会

正教会のほかに、500万人の信者を持つ、ウクライナのギリシャ・カトリック教会がある。三番目の存在だ。

(東方カトリック教会、東方典礼カトリック教会など、色々呼び名がある)。

本拠地は、現在多くの大使館や避難民の拠点となっているリヴィウにあった(2005年に首都に移転)。

この教会が関与する、第二の紛争の存在も忘れてはならない。

この教会は、自らをカトリックであり正教会であると定義するものだ。ウクライナの西に信者が多い。

16世紀末に誕生したもので、ギリシア正教の典礼(儀式等)を行うが、所属はローマ=カトリック教会に属するのである。

このような教会の存在に、驚く人も多いかもしれない。

ウクライナの西側は、かつてポーランド・リトアニアの支配する地域だったことがあるので、教会の外観などを見て、ローマ=カトリック教会の強い地域だと思う人もいるかもしれない。

そうではないのだ。現実にはギリシャ・カトリック教会は、ポーランドのカトリック、そしてロシアのロシア正教の両方から圧迫を受けたことがある。迫害すらあった。

プロテスタントの宗教改革によって、教会は大激震に直面していた時代であった。そんな中で、キエフの正教会は、コンスタンティノープルかローマかを選ばなければならなくなった。そして、1596年にローマを支持することを決めたのだ(ブレスト合意)。

これは政治的な理由であり、当時、カトリックのポーランドが現ウクライナ領を支配していたことと関係がある。

また「フィレンツェ公会議」をキエフが受け入れていたことの結果でもある。

前編にも、この記事の上にも太字で説明が出てくるこの会議、1439年に開かれたものだ。オスマン・トルコ帝国(イスラム教徒)の脅威の前に、東西のキリスト教徒(正教とカトリック)が統一することを話し合う会議だ。

この会議に、モスクワの大公は参加を拒否したが、キエフは参加していたのだ。

このたった14年後、千年続いた東ローマ(ビザンチン)帝国は滅びてしまうことになるのだが。

スヴィアトスラヴ・シェフチュク氏。ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の大主教(アービショップ)。51歳。リヴィヴ州のストルイ生まれ。Wikipediaより
スヴィアトスラヴ・シェフチュク氏。ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の大主教(アービショップ)。51歳。リヴィヴ州のストルイ生まれ。Wikipediaより

ただし、当時この決定は、ウクライナの全部の教会が受け入れた訳ではない。

キエフの教会は、二つに分裂した。大まかに言うと、儀式は正教だがカトリックに編入された西方面と、そのまま正教に残った地域である。

後者は、やがてモスクワに依存するようになり、そして現代、独立したウクライナ正教会へとつながっている。

モスクワの正教会は、1993年にバラマンド(Balamand)で行われたエキュメニカル会議で、カトリックと正教会の間で合意が成立したにもかかわらず、この教会を「裏切り者」とみなしている。

この教会の存在は、モスクワを恐怖に陥れているという。

つくづくウクライナというのは、宗教の境界線に位置しているのだろうかと考えさえられる。ロシア派、独立派、西欧派・・・しかもロシア派はある程度自治権の範囲は広く、西欧派は西側のカトリックと全く同じというわけではない・・・。

こんな中で「一つのウクライナ国民、一つの国民国家」をつくるのは、そう簡単ではないかもしれない。

でも、逆説的だが、迫害を受けることは、一つの民族や国民をつくりあげる重要な要素である。辛い状況ながら冷徹な事実を述べるなら、どの教会に属していても「ウクライナ人」「ウクライナの土地」として、まとめてロシアに攻撃されることは、ウクライナという国民国家をつくるのに、最も寄与しているかもしれない。

今、ゼレンスキー大統領が、ローマ教皇フランシスコに、ロシアとの戦争の和解の調停と仲介を頼んでいる。

どういう意味があるのだろうか。なぜこうなっているのだろうか。

4月には、最も重要な祝祭であるキリストの復活祭もある。

これからもこの戦争の宗教面は、注目する必要があるだろう。

まとめ:ウクライナの主な3つの教会

まとめると、今のウクライナは宗教的には、主に三つに分かれている。

1、独立したウクライナ正教会とキエフ(キーウ)総主教。

コンスタンティノーブル総主教によって独立を認められた。

(モスクワに反抗するウクライナの正教会は、近年二つあったが、合併してうまれた)。

キエフ(キーウ)の聖アンドリーイ教会。ウクライナ総主教庁の聖堂だが、国の議会の承認を得て、今はコンスタンティノープル総主教庁に与えられた。
キエフ(キーウ)の聖アンドリーイ教会。ウクライナ総主教庁の聖堂だが、国の議会の承認を得て、今はコンスタンティノープル総主教庁に与えられた。写真:イメージマート

2、モスクワに依存するキエフ正教会。

330年強続いている従来の姿である。かなり幅広い自治権を認められている。

キエフ・ペチェールシク・ラブラ大修道院。国立博物館の管理と、モスクワ総主教庁系ウクライナ正教会が管理する地域に分かれている。1990年に世界遺産リストに登録された。Wikipediaより
キエフ・ペチェールシク・ラブラ大修道院。国立博物館の管理と、モスクワ総主教庁系ウクライナ正教会が管理する地域に分かれている。1990年に世界遺産リストに登録された。Wikipediaより

3、ギリシャ・カトリック教会。典礼(儀式等)は正教だが、所属はローマ=カトリック教会。

ウクライナの西に信者が多い。2005年に本拠地はリヴィウから首都キエフ(キーウ)に移転、大変モダンな教会を造った。大主教はロシアに対し、教会を破壊するなと訴えている。

聖ユーラ大聖堂。西のリヴィヴにある。バロック・ロココ様式。中には正教会のイコンなどが飾られている。Wikipediaより。
聖ユーラ大聖堂。西のリヴィヴにある。バロック・ロココ様式。中には正教会のイコンなどが飾られている。Wikipediaより。

※この記事では、教会が独立する現在の話では「キエフ(キーウ)」とし、歴史の話の際は「キエフ」と表記しました。まだ「キーウ」という名前が一般に浸透しておらず、わからない読者が多いことを心配してのことです。

なおタイトルは文字数制限があるため、(キーウ)の表記は断念しました。

ご理解いただければ幸いです。

また、コンスタンティノープル総主教は、現代では、特に英仏語等では「(コンスタンティノープルの)エキュメニカル総主教」と呼ばれることが多いです。エキュメニカルとは「教会統一運動の」「普遍的な」といった意味です。

【主な資料】

◎『ル・モンド』

https://www.lemonde.fr/le-monde-des-religions/article/2022/03/04/l-ukraine-catalyse-une-crise-au-sein-du-monde-orthodoxe-entre-moscou-et-constantinople_6116091_6038514.html

https://www.lemonde.fr/international/visuel/2018/12/15/pourquoi-l-eglise-orthodoxe-va-connaitre-un-nouveau-schisme_5398129_3210.html

https://www.lemonde.fr/religions/article/2018/10/11/le-patriarcat-de-constantinople-reconnait-une-eglise-orthodoxe-independante-en-ukraine_5368171_1653130.html

◎世界史の窓

http://www.y-history.net/appendix/wh0601-075.html

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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