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【深掘り「鎌倉殿の13人」】阿野全成は、なぜ謀反人とみなされたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家は、阿野全成に謀反の嫌疑を掛けた。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、阿野全成が謀反人とみなされていた。史料はこの件をどう伝えているのか、詳しく掘り下げてみよう。

■阿野全成の来歴

 仁平3年(1153)、阿野全成は源義朝と常盤御前の子として誕生した。頼朝は異母兄、義経は同母弟である。幼名は今若である。

 平治元年(1159)の平治の乱で、義朝は合戦に敗れ、東国へ逃げる途中で殺害された。全成は辛うじて死罪を免れ、醍醐寺(京都市伏見区)の僧侶となった。悪禅師と号したのだから、武芸に通じていたのだろう。

 治承4年(1180)、頼朝が伊豆で打倒平家の兵を挙げると、全成も醍醐寺を抜け出して東国へ下向した。頼朝は石橋山の戦いで敗れたが、佐々木兄弟の導きにより、下総鷺沼(千葉県習志野市)で全成と対面した。

 頼朝は弟の全成と初めて会ったとき、その志に感涙したという。その後、全成は阿波局(北条時政の娘)を妻とし、長尾寺(神奈川県川崎市)に加えて駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、阿野を名字とした。

■全成の立場

 全成の妻・阿波局は北条時政の娘であり、北条政子(頼朝の妻)の妹でもあった。阿波局は、頼朝の子・千幡(のちの実朝)の乳母になった。

 乳母は子の両親から信頼された人物が務め、子の成人後は大きな発言力を持った。それは、乳母の夫も同じである。つまり、全成は単に頼朝の弟だったことに加え、妻が千幡の乳母になることで、地位を築いたのだ。

 建久10年(1199)に頼朝が亡くなると、頼家が次の征夷大将軍となった。頼家を支えたのは、比企能員ら比企一族である。能員の妻は、頼家の乳母を務めていた。

 おもしろくないのは時政であり、それは全成も同じだった。やがて、時政と全成は結託し、頼家そして比企一族と対立の様相を呈した。

■全成の謀反

 『吾妻鏡』建仁3年(1203)5月19日条によると、全成は謀反の嫌疑により、武田信光に捕らえられた。その身柄は、宇都宮四郎兵衛に預けられたという。全成の捕縛は、対立する頼家が先手を打った形になった。

 同年5月20日、比企時員が北条政子に報告したところによると、全成は謀反を企てたので捕らえ、その妻の阿波局に事情を聞くため呼び出した。しかし、阿波局は詳しいことを知らなかったという。

 この年の2月頃、全成は駿河国に下向していて、連絡が取れなかったが、特段、疑うところはなかったという。つまり、全成は嫌疑不十分だった可能性が大いにある。

 同年5月25日、全成は常陸国に流罪となり、6月23日に下野国で八田知家に殺害された。知家に殺害を命じたのは、頼家だった。全成の子・頼全も京都で佐々木定綱に討たれたのである。

■まとめ

 全成に鎌倉殿になる野心があったのか、謀反を起こす計画があったのか、今となっては詳しいことがわからない。結果として、頼家は比企氏と協力して全成を捕らえ、同時に北条氏の勢力を削ぎ、自らの権力を保とうとした。

 全成が謀反人とされたのは、頼家や比企一族のでっち上げだった可能性が高い。その後の経緯については、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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