帝国大学の医師も匙を投げた、奇病「バク」と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本でも八丈小島ではバクと呼ばれている奇病が蔓延しており、多くの島民を苦しめてきました。
この記事ではバクとの戦いの軌跡について紹介していきます。
全国区になったバク
中浜は1896年(明治29年)、調査結果を東京医事新誌に発表しました。
中浜の調査によると、当時の八丈小島の人口は約420名で、その多くがバク病に罹患していたことが確認されました。
症状は主に下腿のリンパ腺の腫れと肥大を特徴とし、特に女性に多く見られたのです。
発症は7歳から13歳頃に始まり、発作的な高熱やリンパ腺の腫れを伴い、症状が重篤化することがありました。
しかし日常生活に大きな支障はなく、早世することも少なかったようです。
中浜は、この病気が九州南部などで「フトスネ」「コエスネ」と呼ばれる象皮病と同一であると結論づけました。
しかし、フィラリア症や細菌感染の可能性を疑いながらも、当時の寄生虫学的知識の限界により、血液検査での明確な原因究明には至らなかったのです。
それでも中浜の報告は、特に「腫大肥厚するのは下肢が最も多く、上腿、上肢とこれに次ぐ」という観察が、後年の研究において重要な意味を持つ記録として評価されています。
この調査は、日本の医学史において貴重な一歩となり、風土病への理解を深める契機となりました。
京大教授が八丈小島にやってきた
1911年(明治44年)、京都帝国大学(現在の京都大学)衛生学教室の吉永福太郎と帖佐彦四郎は、象皮病の原因究明のため八丈小島を訪れました。
彼らは、15年前に中浜東一郎が行った調査に続き、象皮病と呼ばれる奇病の調査を行ったのです。
中浜の時代には病因が特定されなかったバク病について、京都大学の衛生学教室は新たな光を当てることを目指しました。
当時の日本の医学界では、象皮病の原因についてフィラリア糸状虫が主な要因であるとする説が有力でしたが、京都大学の松下禎二教授はこれに異を唱え、連鎖球菌こそが直接の原因であると主張していました。
彼らの調査では、バク病患者12名の血液を昼夜にわたって検査したものの、ミクロフィラリアは検出されませんでした。
一方、丹毒様浮腫を呈する21名中14名から連鎖球菌が検出され、この菌が発作の原因であると考えたのです。
さらに、連鎖球菌を6名の患者に接種したところ、自然に発症するのと同じ発作が起こりました。
発作予防のために76名に加温殺菌した菌を接種したところ、発作が抑制されたのです。
この結果をもとに、吉永と帖佐は象皮病の原因は連鎖球菌であり、日本各地の象皮病も同じ原因であると結論づけました。
しかし、現代の知見では、象皮病の主因はフィラリア虫によるリンパ系の閉塞であることが明らかにされています。
それにもかかわらず、彼らの研究は、象皮病研究の一端を担い、日本の医学史に残る重要な一歩となったのです。
京大に異を唱えた九大
九州帝国大学の望月代次と井上三郎は、八丈小島のバク病に関する吉永・帖佐の結論に疑問を持ち、1912年に現地調査を行いました。
彼らは、象皮病の原因が連鎖球菌であるという吉永・帖佐の主張に対し、ミクロフィラリアの存在を確認する必要があると考えたのです。
調査は主に鳥打村で行われ、象皮病患者32名のうち15名(46.8%)にミクロフィラリアが確認されました。
また、象皮病を発症していない56名のうち26名(46.4%)にも同様の寄生虫が見つかり、結果として村民全体の約半数がミクロフィラリアに感染していることが明らかになったのです。
この調査結果は、前年に吉永・帖佐が「ミクロフィラリアは見出せなかった」とした結論と大きく異なっていました。
望月と井上は、象皮病の発生にはフィラリア糸状虫が関与していると主張し、京大側の連鎖球菌説に異論を唱えました。
しかし、彼らは細菌感染が象皮病の症状を悪化させる可能性を認め、細菌感染が丹毒様発作を引き起こす一因となることも否定しなかったのです。
さらに、望月と井上は八丈小島の臨床観察において陰嚢水腫や乳糜尿(陰嚢水腫はリンパ液が溜まった陰嚢が大きくなる症状。乳糜尿は尿が粥のように白く濁る症状。どちらも日本で見られるフィラリアにおいて顕著なものであった。)の症例が見られなかったことを特記しています。
また、彼らは簡易的な調査でヤブカ15匹を解剖し、3匹からフィラリアの幼虫らしきものを発見しました。
この調査は八丈小島におけるフィラリア糸状虫の伝播に関する最初の記録であり、寄生虫学者の佐々学も注目しています。
また、八丈小島だけでなく八丈島でも調査が行われ、象皮病患者21名が確認されました。
特に樫立村では、29名中17名がミクロフィラリアに感染しており、そのうち1名は陰嚢水腫を患っていたのです。
その後、京大側の連鎖球菌説と九大側のフィラリア説の論争が続きましたが、最終的に京大側が折れる形となりました。
この調査が行われたのは、フィラリアの新種であるマレー糸状虫が発見される15年前のことであり、八丈島本島と小島のフィラリアが別種であることにはまだ気づかれていなかったのです。
しかし1912年の九大による調査以降、35年以上にわたり八丈小島は研究者から忘れられ、無医村となった島ではバク病が途絶えることなく続きました。
島民は病苦に悩まされ続けることとなり、厳しい現実に直面し続けたのです。