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誰もが「まさか」と驚いた!電光石火で成功した奇襲戦3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 当たり前のことだが、会社経営などではスピード感が求められる。それは合戦でも同じで、敵が予期せぬ電光石火の奇襲戦は大いに効果があったので、そのうち3つを紹介することにしよう。

◎屋島の戦い

 元暦2年(1185)2月10日、源頼朝から平家追討の命を受けた弟の義経は、屋島へ向かった。義経は、熊野水軍、伊予水軍、摂津渡辺党を味方としていた。同年2月18日、義経が摂津渡辺を出航しようとしたが、船頭が恐れをなすような暴風雨だったという。

 そこで、義経は船頭を弓矢で脅して、無理やり出航させると、阿波勝浦に到着したのである。上陸後、義経は油断していた屋島の平家を急襲し、見事に勝利を収めた。平家はさんざんに打ち負かされると、壇ノ浦に逃げ、義経によって滅ぼされたのである。

屋島。
屋島。写真:イメージマート

◎厳島の戦い

 天文24年(1555)9月、毛利元就は夜間にもかかわらず、敵の陶晴賢が陣を置く厳島に上陸した。水軍を率いる毛利方の乃美氏は、多数の敵船が停留する鳥居付近へ思い切って上陸し、攻撃の機会をうかがったという。夜の闇で、敵味方の判別が困難だった。

 陶軍は2万という大軍だったが、狭い場所に陣を置いたので、身動きが取れなかった。そこへ毛利軍が2方向から奇襲攻撃したので、たちまち陶軍は大混乱に陥り、大敗北を喫したのである。晴賢は戦場から離脱したが、大江浦で自害して果てた。

厳島神社。
厳島神社。写真:アフロ

◎本能寺の変

 天正10年(1582)6月、織田信長は本能寺に滞在していたが、身辺にはわずかな手勢しかいなかったという。この情報を入手した明智光秀は、備中に出陣予定だったが、進路変更して信長を討つべく本能寺に向かった。そうとは知らない信長は、すっかり油断していた。

 光秀の軍勢が本能寺を取り囲むと、観念した信長は自ら武器を手にして応戦した。しかし、しょせんは多勢に無勢であり、たちまち信長は劣勢に追い込まれた。死を覚悟した信長は、激しい炎で包まれた本能寺で自害したのである。光秀の奇襲攻撃は、大成功したのだ。

本能寺跡。
本能寺跡。写真:イメージマート

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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