新型コロナに没した米パワー・ポップ界出身の才人、ファウンテンズ・オブ・ウェインのアダムを悼む
訃報に「身が引き裂かれる」気持ちに
日本でも一部で根強い人気を誇る、米バンド、ファウンテンズ・オブ・ウェインの創設メンバーのひとりとして知られるミュージシャン、アダム・シュレシンジャーが、4月1日、ニューヨーク州北部の病院で死亡した。新型コロナ感染による合併症だった。52歳だった。
この訃報が大きな反響を呼んでいる。一般的な彼の知名度から考えてみると、意外なほど、その報道の量は多い。知る人ぞ知るところでは、シュレシンジャーは俳優ジョン・バーンサルの従兄にあたる。バーンサルは、人気ドラマ『ウォーキング・デッド』初期シーズンで重要なキャラクター、シェーン・ウォルシュを演じた(つまりマーベル・ドラマ『パニッシャー』のフランクでもある)。しかし、彼と結びつける報道はほとんどない(だから「そのせいで注目されている」わけではない)。
ただただ人々は、シュレシンジャーの急逝に驚いて、打ちのめされている。そうなった理由のひとつは、彼の若さだ。近年はTVドラマの音楽制作者として大活躍していたこともあり、ソングライター/音楽プロデューサーとして、ばりばりの現役、脂が乗り切った状態にあった、からだ。
もうひとつの理由は、彼が最も得意とする音楽性、「持ち分」の性質ゆえなのだ、と僕は考える。とくにこの点から「身が引き裂かれるような感情に襲われている人」が、世に多くいるのではないか。そう推察する。
彼はパワー・ポップの落とし子だった
彼の音楽の原点は「パワー・ポップだった」からだ。パワー・ポップとは、ロックのサブジャンル用語のひとつだ。爽やかにして溌溂、切なくとも軽やかに美しく、そして、いつもそこはかとなく、哀しい――そんな特性がある。
アダム・シュレシンジャーは、まるでこのサブジャンルの落とし子のようなところから登場してきて、そして、そのルーツを抱えたまま遠い世界にまで飛翔していった音楽人だった。いや「パワー・ポッパー」だった。
ゆえに僕はここで、彼の音楽的功績をたどることで追悼の意を表したいと思う。シュレシンジャーが生み出した音楽の数々は、この悲歎のときのさなかにあってもなお、精神的救済への回廊となるべきものだと固く信じるからだ。
ヒーローはいつも「遅れてくる」
シュレシンジャーがファウンテンズ・オブ・ウェインのベーシスト/主要ソングライターとしてメジャー・デビューしたのは96年。つまり彼らは「遅れてきたパワー・ポップ・バンド」だった。パワー・ポップとはそもそも70年代の流行だったから、かなりの「遅れっぷり」だったと言える。
そんな彼らの最大のヒット曲はというと――これもデビューから随分時間が経ってからの――03年に発表したナンバー「ステイシーズ・マム」だ。米ビルボードHOT100で21位まで上昇、グラミー賞にもノミネートされた。ガールフレンドの「お母さん」にぐっと来ちゃってる少年の心理をコミカルに描いた、楽しい歌だ。
そう聞くとロック・ファンならば、リック・スプリングフィールドの「ジェシーズ・ガール」(81年。友人の彼女を好きになる)、あるいはヴァン・ヘイレンの「ホット・フォー・ティーチャー」(84年。学校の女教師がセクシーすぎて生徒が欲情)といったポップ・ヒッツの系譜を受け継いでいることを、自然に連想するはずだ。
さらに、冒頭からフィーチャーされる印象的なギター・ストロークは、パワー・ポップ界の大先輩、ザ・カーズのヒット曲「燃える欲望(原題:Just What I Needed)」(78年)そのまんまだ。つまりオマージュを捧げているわけだ。
シュレシンジャーが作る曲は、こんなふうな遊び心に満ちあふれているものが多い。自分自身が好きだった音楽への尽きぬ想いを自作へと転写することにかけて、素晴らしい才能があった。それが発揮された最大の対象が、パワー・ポップだったということだ。
ビートルズからの遠い系譜の上に…トム・ハンクスも惚れた、あの名曲が生まれた
さてそのパワー・ポップだが、日本でも知名度の高い曲でその典型例を示すと、ザ・ナックの「マイ・シャローナ」(79年)や、チープ・トリックの「甘い罠(原題:If You Want to Want Me)」(77年)なんかがそれに当たる。ざっくり言うと、以下のような音楽性を指す。
中期までのビートルズを理想とする、シンプルなバンド編成のポップ・ロック。キャッチーな「歌メロ」とコーラス・ワーク、弾けるようなビート感――といったものの具体例、模範解答というのも、シュレシンジャー自らが実践してくれている。架空のバンド、ザ・ワンダーズによるナンバー「ザット・シング・ユー・ドゥ」がそれだ。
シュレシンジャー筆によるこの曲は、トム・ハンクスの初監督映画『すべてをあなたに(原題:That Thing You Do!)』(96年)の主題歌であり、劇中バンドによって再現された。同作はビートルズが世にいた時代、64年のアメリカを舞台としたフィクションで、ハンクスは脚本と出演もする力の入りようだった。彼の製作会社の第一弾作品がこれであり、会社名は作中のレコード・レーベル「プレイトーン」にちなんでいる。
この主題歌で、シュレシンジャーはアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞にノミネートされる。サントラ盤も好評で、シングル・カットされたこの曲はヒットした。そしてザ・ナックら「パワー・ポップの先輩バンド」にまでカヴァーされるという栄誉を得た。
そして多彩な大活躍へ
96年ごろの米ポップ音楽シーンというと、ヒップホップ/R&Bの黄金期の最終段階に入ったころだった。ロックのほうは、90年代初頭のオルタナティヴ大ブームが一気に沈静化したあとは、とくにいい話はなにもなかった。なかんずく「ポップな」ロック・バンドって、それはどこの惑星の話ですか?というぐらいに、トレンドから外れて印象が弱いものだった。
だからこの映画がらみの成功は、シュレシンジャーの人生という名の畑に、将来大きく育つ果樹の種を植えたとも言える。そのひとつが(紆余曲折ありながらも)アルバムを重ね、03年に「ステイシーズ・マム」を世に送り出したファウンテンズ・オブ・ウェインの達成だ。もうひとつが、映画やTVドラマの音楽制作において、見事な売れっ子となったことだ。この職域で彼は、幾多の印象深い作品を残した。
とくにTVでは、人気ロマコメ『クレイジー・エックス・ガールフレンド』に曲を書き下ろし、エグゼクティヴ音楽プロデューサーをつとめ、幾度もエミー賞の音楽部門の候補となった。そしてついに2019年、最終の第4シーズンにて、彼の楽曲が同賞の音楽賞歌曲部門を受賞した。そんなタイミングだった。
音楽プロデュサーとしてもいい仕事を多く遺したシュレシンジャーだが、彼自身のサイド・プロジェクトも忘れてはいけない。なにしろアイヴィー(IVY)の一員だったのだから。フランス人女性、ドミニク・デュランのヴォーカルをフィーチャーしたインディー・ポップ調の音楽は、これまた日本でも(小規模ながら)熱く支持された。フランスのポップ・バンド、タヒチ80のプロデュースをつとめたアンディ・チェイスがギターを担当していた。
一瞬ながらキラリと光ったのが、ティンテッド・ウィンドウズだった。これは「パワー・ポップのスーパー・グループ」と呼ぶべき編成で、ベースのシュレシンジャー以外のメンバーは、ヴォーカルがハンソンのテイラー、ギターがスマッシング・パンプキンズのジェームズ・イハ、そしてドラムスが、チープ・トリックのバン・E・カルロスだった。09年に突如アルバムをリリースし、ツアーして、世界各地を騒がせた。
やるせなく、そして同時に、祝福すべき人生そのものを
身を引き裂かれる、と上で僕は書いた。似たような感傷に「胸かきむしられる」というのもある。じつはこれらは全部、パワー・ポップの得意技のなかにある。あるいは「パワー・ポップというレンズを通して」人の世から浮き上がって見えてくる要素の、典型例だ。とくにこれらは、日本で言うところの「サビ前」、つまりブリッジ部分の盛り上がりのなかにある、切ないトーンから聞こえてくることが多い。
言い換えると、夢を見ることの代償について、つねに自覚的な態度がこの音楽性のなかにはある。「いつも、いつまでも勝ち続けられる」人生などあり得ないことを十二分に知りつつも、それでもなお、人というものは生き続ける。人の世の善性を、どこか信頼しながら……という、ある種避けようもない「脆さ」についての歌こそが、パワー・ポップの本質だ。
ピューリッツァー賞受賞者でもあるアメリカの作家マイケル・シェイボンは、かつてパワー・ポップについてこう書いた。「本物のパワー・ポップとは、やるせなく、そして同時に、祝福すべきものなのだ」と。それってまさに、僕らの人生そのものじゃないか?
いや「まさにそのものだ」と思えるような人生を送っている者全員にとっての、無二の親友となり得るような音楽を作り続けていた練達の職人のひとりこそが、アダム・シュレシンジャーその人だった。
アーティストとしての彼が遺したアルバムは、ファウンテンズ・オブ・ウェインで5枚。アイヴィーで6枚、ティンテッド・ウィンドウズで1枚ある。僕が最初にお薦めするのは、ファウンテンズ・オブ・ウェインの第3作『ウェルカム・インターステイト・マネージャーズ』(03年)だ。「ステイシーズ・マム」も含む大力作が、これだ。
もっと聴いてみたいと思った人は、米〈ビルボード〉と〈ローリング・ストーン〉がそれぞれ「アダム・シュレシンジャーの必聴曲」リストを公開している。前者は15曲、後者は20曲と、どちらも入魂の選曲だ(テキストも熱い)。ぜひこちらも試してみてほしい。