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複合的な要因で多くの犠牲者を出した、八甲田山雪中行軍遭難事故

華盛頓Webライター
credit:pixabay

冬の山は夏の山と比べて危険であり、遭難して命を落とす人も非常に多いです。

そのような中でも群を抜いて甚大な被害を出したのは、明治時代に青森県で起こった八甲田山雪中行軍遭難事故です。

今回は近代登山史上最悪の事故、八甲田山雪中行軍遭難事故について前回に続いて紹介していきます。

天候だけでなく、人的原因もあった八甲田山雪中行軍遭難事故

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八甲田山で起きた雪中行軍の遭難事件は、日本の登山史・軍事史においても類を見ない悲劇的な出来事として記録されています。

その原因についてはさまざまな説が唱えられていますが、決定的な要因は特定されていません。しかし大きく分けて、6つの原因があるといわれています。

1つ目は低体温症の影響です。

八甲田山の過酷な環境下で、行軍に参加した兵士たちは全員が低体温症に陥っていたと考えられています。

低体温症の典型的な症状として、判断力の低下、思考停止、さらには錯乱や幻覚が挙げられるのです。

実際、生還者の証言によれば、行軍中に幻覚や幻聴があったことが確認されています。

神成大尉が「天は我らを見捨てたらしい」と発言したのも、低体温症による錯乱の一例とされているのです。

不眠不休で食事もままならず、氷点下の猛吹雪の中をさまよい続けた結果、全員が精神的・身体的に限界を迎えました。

2つ目は過酷な気象条件です。

行軍が行われた時期、日本列島はシベリア寒気団に覆われていました。

青森では例年よりも8度から10度低い気温が記録されており、特に山間部では気温がマイナス20度以下にまで下がっていたと推測されています。

加えて、強風が吹き荒れる中、行軍隊は厳しい自然環境に直面しました。

この極寒と暴風雪により、視界が遮られ、行軍の難易度がさらに高まったことは想像に難くありません。

3つ目は不十分な装備です。

行軍時の装備も、今回の遭難における大きな要因の一つとされています。

当時の装備は、現代の冬山登山に比べて防寒対策が不十分でした。

特に下士卒の装備は貧弱であり、寒さに対する備えが十分ではなかったことが、多くの凍傷者を生む結果となりました。

倉石大尉は偶然持っていたゴム靴が凍傷を防いだとされていますが、これは当時の日本では非常に稀な装備であるといえます。

また装備の問題に加え、濡れた衣服の交換が適切に行われなかったことも、体温低下の一因となりました。

4つ目は指揮系統の混乱です。

指揮系統の混乱も、悲劇を招いた要因の一つと考えられます。

映画「八甲田山」や小説「八甲田山死の彷徨」では、指揮官の無謀さや軍首脳部の責任が強調されていますが、これらはフィクションとしての演出も含まれていることを忘れてはなりません。

しかし、実際に指揮系統の統一が欠けていたことは事実であり、特に神成大尉と他の将校の間での意思決定の不一致が混乱を招いたとされています。

5つ目は情報不足と認識の甘さです。

行軍前に神成大尉が中隊長に任命されたのは、わずか3週間前でした。

準備期間が極めて短かったため、冬山登山や雪中行動に関する基本的なリスクの把握が十分に行われなかったのです。

また、参加した兵士たちの多くは寒冷地出身者でありながら、八甲田山の特殊な雪質や気象条件に対する知識が不足していました。

その結果、雪中行軍を軽視する者が多く、行軍をトレッキング程度に考える風潮が広がっていたのです。

出発前日には壮行会が開かれ、深夜まで宴会が続いたというエピソードも、事前準備やリスク認識が不十分だったことを示しています。

6つ目はリングワンダリング現象です。

行軍中、視界が悪化する中で多くの兵士が方向感覚を失い、いわゆる「リングワンダリング」と呼ばれる現象が発生しました。

これは視界を失った人間が無意識のうちに円を描くように歩いてしまい、進むべき方向を見失ってしまう現象です。

この現象が、兵士たちが道に迷い、遭難へと至った一因とされています。

八甲田山の雪中行軍遭難事件は、これらの複数の要因が重なり合った結果として発生しました。

それぞれの要因が複雑に絡み合い、悲劇的な結果を招いたのです。

自然の脅威と人間の脆さが浮き彫りになったこの事件は、後世においても多くの教訓を残しました。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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