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アメリカの求めに応じて民主化を達成した台湾が中国の逆鱗に触れた訳と「92年コンセンサス」

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
台湾の蔡英文総統(写真:REX/アフロ)

 中台対立の根本にあった蒋介石と毛沢東が死去した後に現れた鄧小平の平和攻勢が頓挫したのは皮肉にも「民主化」でした。日本も台湾有事となれば傍観者ではいられません。キーワードの「92年コンセンサス」を軸に近年の状況を振り返ってみます。

75年~79年 蒋・毛の死去にともなう新体制と米中国交正常化

 75年に蒋介石が、76年には毛沢東が相次いで死去。中国は鄧小平の時代(78~97年)へ移ります。

 79年、遂に米中が国交正常化。台湾の位置づけはほぼ「上海コミュニケ」を踏襲したものの正式に国交を樹立した以上、台湾との国交は断絶し米華相互防衛条約も終わったのです。具体的には在台湾米駐留軍は撤退するも武器援助は続けるといった内容で妥協しました。

 台湾有事というと近年は専ら中国による台湾侵攻を指しますが、当時は蒋の大陸反攻計画のように台湾側からの侵攻も意味していて中国側も恐れていたのです。米軍の台湾撤退でこの懸念は薄らぎました。他方武器援助の継続はアメリカが台湾の安全に関与するというところまで譲ってはいないとの意味合いといえましょう。

現に同年、失効した米華相互防衛条約の代わりにアメリカは国内法として「台湾関係法」を議会が制定しています。台湾は国家と同格で、その将来を非平和的手段で解決しようとする試みを脅威とみなして武器は供与できるとした内容です。

 ただし米軍の介入までは確約していません。これが今に至る「あいまい戦略」と呼ばれる構図です。と同時に台湾民の人権尊重および向上をも求めました。

 というのも台湾は蒋介石および支配する国民党の独裁が続き、子の?経国に世襲されて以後も同様。「台湾関係法」は党派を超えて存在する反共派が実利に傾くホワイトハウスを掣肘した面もあって、そうした勢力は同時に台湾の独裁的体制に批判的でもあったのです。

79年~91年 鄧小平の平和攻勢

 毛沢東死後の混乱を解決して実質的な最高指導者となった鄧小平は「改革開放路線」を指向して経済特区に外資を呼び込むなどして10%前後の実質経済成長率を記録していきます。

 アメリカは宿敵ソ連のアフガニスタン侵攻を機に「新冷戦」と呼ばれる状況下で国交を結んだ中国との協調を深め、呼応するように鄧も台湾への強硬姿勢を緩めて三通(通商・通航・通郵)を呼びかけるにまで至ったのです。?経国は「三不(さんふ)政策」で拒絶するも民間レベルでは主に香港あたりを拠点に実質的な三通が行われるようになってきました。

 鄧は矢継ぎ早に台湾へ「第3次国共合作」「1国家2制度」のプランを示して平和攻勢をかけていきます。「国共合作」とはかつて対日戦争で国民党と共産党が一致して戦った(第2次国共合作)言葉にちなみ、また一緒にやろうよとのメッセージ。1国家2制度は台湾の祖国復帰に際して現体制を保証するといった意味です。

 経済力を付け、延々と続く国民党独裁に辟易していた台湾に元から住む本省人にとって鄧の誘いは魅力的であったはず。そもそも国民党は49年に大陸からやってきたヨソ者で強権支配にうんざりしていたから。

 このままでは台湾内部の事情で大陸へ吸い寄せられかねない状況を?経国は深刻に憂う事態に立ち至りました。

 ただこの平和攻勢は88年の?経国死去、89年の天安門事件へ強い怒りを示したアメリカによる対中関係冷却化と91年のソ連崩壊という大事件でフェーズが転換していくのです。

92年~ 李登輝による民主化が引き起こした米中の一触即発

 ?経国の死去で副総統から昇格して台湾トップに立った李登輝総統は89年に国民党以外の政党結成を解禁して民主進歩党(民進党)を合法化。92年には国民党の正統性を主張するため47年に大陸で選ばれたまま居座っていた「万年議員」を退職させて立法議員の全面改選を断行するなど民主化を進めます。

 「台湾関係法」で人権の尊重と向上を求めていたアメリカは歓迎し95年の李登輝訪米が実現。鄧小平の後継である江沢民は当然不満でアメリカとの高官交流を停止したのです。共通の敵であったソ連は既になく、この頃から鄧時代に生まれた米中協調にすきま風が生じてきました。亀裂が決定的になったのが96年に行われた初の総統直接選挙。李登輝が勝利したとはいえ台湾独立を綱領に書いていた民進党からも立候補者が出たのです。

 複数政党制による直接選挙はアメリカの価値観と一致するのと対照的に中国は台湾人自身の意思でトップを選ぶ行為=台湾独立の推進と強く反発して選挙直前にミサイル発射実験を敢行。アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中国を牽制しました。

 この構図が現在の中台関係の祖型とみてよさそうです。

 元来、中台対立は毛沢東の共産党vs蒋介石の国民党でした。ゆえに一見して中国の敵は国民党と思われがちで半ば正しい半面、この構図が続く=国民党支配の台湾であり続けるのが事態を膠着させる方便でもあります。鄧小平の平和攻勢もこの図式を基に劣勢の台湾国民党が屈せざるを得ないという見通しからでした。選挙は結果的に国民党が勝ったとはいえ独立勢力つまり「1つの中国」以外の訴えをする勢力にも選択肢が与えられた自体が許せない出来事だったといえます。

2000年~ 民進党政権で突如浮上した「92年コンセンサス」

 2000年の総統選挙で民進党の陳水扁候補が勝利して初の政権交代が実現しました。直後に中国側が「あった」と明かしたのが「92年コンセンサス」。中台双方の窓口機関で作られたとされていて「1つの中国という原則を口頭で確認した」というのです。陳総統は「ない」と否定。

 05年には、もし台湾が独立を宣言したら中国は「非平和的手段」を取れるとする反国家分裂法が制定され、陳政権を牽制します。

 他方、野党となった国民党は「92年コンセンサス」を「1つの中国について中台それぞれが意見を述べ合う合意」と解釈した上で肯定。中国側は以後、陳政権を無視する一方で、かつての宿敵・国民党と親密になっていくのです。国民党の解釈は「1つの中国とは中華民国である」と主張していいという含みを持たせてはいるのですが。

08年~ 旧敵の国民党政権で起きた皮肉な雪解けムード

 08年の総統選挙は国民党の馬英九候補が勝利して民進党から政権を奪回しました。前述のように「92年コンセンサス」を認める立場ゆえ中台関係は雪解けムード。かつて鄧小平が呼びかけた「三通」を容認したり、15年にはシンガポールで初の中台首脳会談を実現させたりしたのです。

 馬総統の対中政策は「統一せず、独立せず、武力行使せず」の現状維持。アメリカも歓迎していました。ただし親中的な政策は「台湾人」のアイデンティティーを共有する学生らに警戒されて14年の「ひまわり学生運動」へとつながります。

16年~ コワモテ習近平登場でむしろ団結した蔡英文政権

 16年の総統選で民進党の蔡英文候補が勝利しました。「92年コンセンサス」を認めないとし中国から独立の意思ありと疑われます。蔡総統の主張は陳水扁氏より穏健なのですが、12年に就任した習近平中国共産党総書記は以前の政権よりコワモテで経済力を背景に台湾と国交を持つ国々に近づいては間を裂いて孤立させていきます。

 観光客の激減など中国からの締め付けで人気も低迷して18年の統一地方選挙では大敗。中国の思惑通りに進んでいるかにみえたのです。

 しかし習氏が19年に1国2制度による台湾統一を強調し、蔡総統が強く反発して支持が回復。加えて先に「1国2制度」を受け入れていた香港でデモが長期化するのをみるや有権者も「明日は我が身」と身構えます。そうした要因が20年総統選挙での再選へとつながりました。

 背景には米中貿易戦争も垣間見えます。中国の野心をくじこうとするアメリカが結果的に台湾に加勢する構図が出来上がっていったのです。22年のペロシ米下院議長の訪台は中国を怒らせました。

 もっともペロシ氏は立法府に所属。外遊先の選択は、三権分立の観点から議員の選択に委ねられていて行政府(ホワイトハウス)が介入しないのが慣例です。

台湾有事と日米安保

 にわかにきな臭くなってきた「台湾有事」で日本は決して傍観者でいられません。仮にアメリカが「あいまい戦略」を放棄して台湾へ加勢したらどうなるでしょうか。

 日米安保条約は「日本国の安全」だけでなく「並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与する」と明記。では極東の範囲はというと過去の政府見解で「中華民国の支配下にある地域」(つまり台湾)も含まれているとしています。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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