天国へ旅立ったゼンノロブロイを最も良く知る男が、秋の三冠馬を振り返る
元祖”飛んだ”馬
「飛んだ」
ディープインパクトは武豊にそう評されたが、そんな史上最強馬が現れる少し前、同様の表現をされた馬がいた。2004年のジャパンC(GⅠ)。悠々先頭でゴールした馬の手綱を取ったのはオリビエ・ペリエ。凱旋門賞3連覇など、数多の名馬の背中を知るフランスのトップジョッキーは言った。
「ゴーサインを出してからはまるで飛行機に乗っているようだった」
ゼンノロブロイ。
彼が乗っていた名馬はこの前走で天皇賞(秋)(GⅠ)を勝ち、次走では有馬記念(GⅠ)を優勝。秋のGⅠをスイープした。1981年にジャパンCが創設されてから昨年まで41年間で、この秋の3つのビッグレースをコンプリートしたのはテイエムオペラオーとゼンノロブロイの僅か2頭。同期間に三冠馬が牡馬も牝馬も6頭ずつ出ている事を考えても、オールエイジの三冠制覇がいかに困難な事かが分かる。
そんな名馬が9月2日、星になった。
「残念です」
そう語るのは川越靖幸元厩務員。1965年2月生まれで現在57歳の彼は、ゼンノロブロイを最も良く知る男の1人。同馬が現役時代に担当だった彼は、マイルチャンピオンシップ(GⅠ)勝ちのゼンノエルシドの他、ウインラディウス、タイキマーシャル、フライングアップルにマチカネキンノホシといった数々の重賞勝ち馬を手掛けた腕利き厩務員だった。
父の勧めもあって馬の世界に入った彼は、84年にトレセン入り。89年に藤沢和雄厩舎へ転厩した。後の1500勝トレーナーも当時はまだ開業2年目。面識もなく、下で働くようになって初めて人となりを知った。
「最初に厩舎へ行った日にいきなり驚かされました」
午後に出向くと、ハナ前と呼ばれる廊下の部分には誰もいなかった。洗い場にも1人もいなかった。不思議に思っていると、馬に語りかける人の声が聞こえた。
「スタッフが皆、馬房の中で仕事をしていました」
当時としては斬新で、トレセン生活6年目を迎えた川越元厩務員にとっても初めてみる風景だった。
「それまでのトレセンでのやり方や考え方と藤沢先生のそれは全く違いました。自分としても吸収してついて行くのに必死でした」
改革を進める若き日の藤沢調教師に言われ、印象に残った事があった。
「『イギリスのホースマンはネクタイをして仕事をしていた』と言われ、格好良いと思いました。また、仕事に対しては凄く細かい人で『靴の中の小石を気にする。そのくらいの気持ちでいないとダメ』と言われました」
強くて綺麗な相棒
ゼンノロブロイを初めて見た時の印象を、彼は次のように語る。
「とにかく品があって綺麗な馬でした」
良いのは見た目だけではなかった。
「頭が良くて大人しい性格でした。調教では言う事を聞くし、普段も人を困らせるようなマネはしない。いわゆる“手のかからない馬”でした」
だから馬の面倒をみているという感覚はなかったと語る。
「変に聞こえるかもしれないけど、信頼のおける友達。“相棒”という感じでした」
3歳時には青葉賞(GⅡ)や神戸新聞杯(GⅡ)を勝ったが、ダービー(GⅠ)が2着で菊花賞(GⅠ)は4着。更に有馬記念(GⅠ)も3着と大舞台ではあと一歩足りない競馬が続いた。
ところが4歳で一変する。冒頭で記した通り、天皇賞(秋)(GⅠ)、ジャパンC(GⅠ)、有馬記念(GⅠ)を3連勝。一気に開花した。
「3歳の時からあまり強い調教をしない馬でした。おそらくやれば出来たと思うのですが、藤沢先生に思うところがあってやらなかったのだと思います。そして、そういう調教を続けているうちに素質が花開きました」
秋のGⅠ3連勝については次のように語る。
「天皇賞は収得賞金的に出走出来るかどうかが微妙でした。結果的にここに出られたのが3連勝につながりました。ジャパンCは天皇賞よりも仕上がっていたので、それなり走ると思いました。有馬記念はキツいレースになったのでハラハラしました。よく我慢してくれたし、無事に終わってくれて良かったと思いました」
こうして本格化したゼンノロブロイは翌2005年、イギリスへ遠征。インターナショナルS(GⅠ)に挑戦した。
「国や環境が変わってもロブロイは変わりませんでした。また、調教中に現地の多くのホースマンから『素晴らしい馬だ』と言ってもらえたのも思い出に残っています」
レースでは残念ながら2着に惜敗した。そして、上がって来たゼンノロブロイを曳いていると、一通の封筒が手渡された。
「最初は何か分かりませんでした」
“最も美しく手入れされている馬”の担当厩務員を対象にしたベストターンドアウト賞を報せる封書だった。
「自分の手入れというか、ロブロイ自身が抜けて良い馬でした。強い馬は沢山いるけど、強くてあれほど美しい馬は滅多にいないと思います」
腕利き厩務員の現在
11年にトレセンを離れた川越さんは現在、北海道の新冠でノーザンレイクという引退馬の養老牧場を管理している。ゼンノロブロイから数年後、任されていた飼い葉係を外された。
「納得は出来なかったけど、藤沢先生はいつもトップにいなくてはいけないから、現状に満足せず、常に何かを変えていました。そんな姿勢は理解出来ました」
だから、その指示に従った。そして、トレセンを離れた。そして、20年からは先述した引退馬の養老牧場でメイショウドトウら5頭の面倒を見る生活を続けている。
「高齢馬も多く、現役競走馬とは違う難しさがあります」
8月17日に星になったタイキシャトルの最期を最後を看取ったのも川越さんだった。
「前の晩の10時までは元気にしていました。でも、翌朝5時に厩舎へ行った時にはもう冷たくなっていました。人に迷惑をかける事なく大往生したのはいかにもシャトルらしいと思いました」
同じ月には現役時代に担当していたフライングアップルも旅立っていた。そして、今回のゼンノロブロイである。川越さんは肩を落とす。
「ロブロイの死は人づてに聞きました。自分にとって思い入れの深い馬で、ふとした弾みで思い出す事もあったので、ショックは大きかったです」
こう語ると、最後にもうひと言、続けた。
「相棒を失いました。22歳ですからね、まだ若いですよね……」
川越さんに愛された秋の三冠馬。現在はタイキシャトルやフライングアップルらと一緒に天国で思う存分、駆け回っている事だろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)