【九州三国志】北郷三代、戦国を駆け抜けた男たち!飫肥の攻防から都城の伝承へ、家名を守り抜いた絆
北郷忠親は永正9年(1512年)、日向の名門北郷氏に生まれました。
島津宗家の信頼を得た彼は、壮年期に豊州家に養子として迎えられたのです。
北郷氏の当主は長男の時久に譲り、忠親は豊州家の主として日向伊東氏の侵攻に立ち向かいます。
天文15年(1546年)、伊東氏の攻勢に対抗するため島津義弘を飫肥城に迎えるも、義弘の離城後、伊東義祐に攻められ城を一度明け渡すこととなります。
しかし、忠親は夜襲で飫肥城を奪還。
だが、永禄11年(1568年)、再び伊東氏の猛攻により飫肥城を失い、庄内へ撤退。
その後、元亀2年(1571年)に68歳で病死しました。
忠親は北郷氏の存続の礎を築き、その意志は息子の時久へと受け継がれたのです。
北郷時久は戦国の荒波に抗う名将でした。
10代当主として島津宗家に忠誠を尽くし、伊東氏や肝付氏との激しい争いの中、巧みに領地を守り抜いたのです。
永禄5年(1562年)、伊東氏に家督を簒奪された北原氏の再興に貢献し、島津貴久から所領を与えられる栄誉を得ました。
時久の手腕は天正6年(1578年)の大友氏の日向進出時にも光ります。
宮崎城で伊東氏残党の反乱を鎮圧し、北郷氏の地位を一層高めました。しかし、家督を巡る不幸もあったのです。
嫡男の相久との不和により、相久を廃して切腹に追い込むという悲劇が天正7年(1579年)に起こり、次男の忠虎が跡を継ぎました。
九州征伐では秀吉に降伏し、祁答院(現さつま町)への移封を余儀なくされるものの、庄内に未練を残し、移住先を「宮之城」と名付けました。
慶長元年(1596年)、66歳で没するまで孫の長千代丸(忠能)の後見人として家を支え続けたのです。
北郷忠虎は、不屈の闘志を持つ武将でした。
兄・相久が廃嫡されたことで嫡男となり、島津氏の九州制覇に大きく寄与します。
天正9年(1581年)、相良義陽との戦で島津義虎とともに功績を挙げ、さらに豊臣秀吉の九州征伐では島津義弘と共に強硬派として抵抗を続けたのです。
最終的に義久の説得に応じて降伏したものの、秀吉から直接所領安堵の朱印状を受けるという異例の厚遇を得ました。
文禄の役では朝鮮に渡り、激戦を重ねた末、文禄3年(1594年)には再び渡海するも、同年12月、唐島で病没。享年39。
忠虎の命を引き継いだのは、側室の子・長千代丸でした。
三代にわたる北郷氏の物語は、激動の戦国時代における家名を守るための奮闘と、血で繋がる深い絆の物語です。
戦場で輝いたその姿は、北郷氏の伝説として語り継がれています。