【九州三国志】頴娃氏の三代、運命に揺れる家系!武勇と忠義、そして名跡を繋ぐ軌跡
頴娃久虎は永禄元年(1558年)、頴娃兼賢の次男として生まれました。
肝付氏の庶流である頴娃氏の家督を、兄の非業の死を受けて元亀元年(1570年)に継承します。
島津氏の家臣として、天正4年(1576年)の高原城攻め、天正6年(1578年)の耳川の戦いに参加し、戦場で頭角を現したのです。
さらに肥前への出兵や島原の陣に参戦し、義弘に偵察を命じられるなど信任も厚かったです。
だが天正15年(1587年)、わずか30歳でその生涯を閉じたのです。
久虎の子、頴娃久音は天正11年(1583年)に生まれたものの、先述したように幼くして父を失います。
不幸は重なり、父・久虎が生前に伊集院忠棟と交わした養子縁組を反故にしたため、忠棟の讒訴を受け、頴娃氏の本領は島津義久に没収されてしまいました。
しかし、久音には谷山や西俣の地が新たに与えられ、幼いながらも武門の責任を背負うこととなったのです。
慶長の役では渡鮮し、義弘から本領返還を約束されるも、病に倒れ16歳の若さで他界。
久音の死により、頴娃氏の血筋は断絶の危機を迎えました。
この難局を救ったのが島津義虎の五男、忠富(後の頴娃久秀)です。
彼は忠恒の怒りを受けて小西行長の預かりとなったものの、朝鮮出兵で武功を上げ、義弘の陣に戻りました。
その後、頴娃氏の名跡を相続し、慶長4年(1599年)の庄内の乱や関ヶ原の戦いでは活躍を見せました。
義弘に忠節を尽くし、薩摩帰還後には200石を拝領。
さらに、島津忠恒の命により入来院氏の家督を継ぎ、入来院重国(重高)と改名。
以降は入来院領の地頭として藩政に尽力しました。
寛永14年(1637年)の島原の乱や長崎の南蛮船対応でもその手腕を発揮したものの、正保4年(1647年)、阿久根で病に倒れ、この世を去ります。
頴娃氏の家督は久秀が迎えた養嗣子・久政が継ぎ、入来院氏は孫の重頼に託されました。
戦国から江戸初期の激動の時代、頴娃氏三代は武勇と忠義をもって家名を繋ぎました。
その軌跡は、島津氏に仕えた武士の生き様そのものだったのです。