【九州三国志】剣と扇が描いた武士の道!東郷重位、示現流に命を燃やす
永禄4年(1561年)、瀬戸口重為の三男として生まれた重位は、北薩の土豪・東郷氏の遠縁にあたる家系に生を受けました。
若き日にはタイ捨流を学び、島津氏の家臣として天正6年(1578年)の高城合戦で初陣を果たし、首級をあげて名を挙げます。
天正15年(1587年)、島津氏が豊臣秀吉に降伏すると義久に従って上洛し、修行のため京都で金細工を学びながら、天寧寺の僧・善吉に出会い、その剣術(天真正自顕流)に開眼しました。
帰国後の重位は剣術の独自の工夫を重ね、天真正自顕流にタイ捨流を組み合わせて、自らの流派を編み出していきます。
庄内の乱の頃には既に多くの門人を抱え、その評判は島津忠恒にまで届いたのです。
慶長9年(1604年)、タイ捨流の剣術師範を忠恒の見ている試合で破り、これをもって島津家の兵法師範に任じられました。
その際、逆上した忠恒が斬りかかると、丸腰の重位は腰に差していた扇子でその攻撃をかわし、忠恒の手を打ち据えたという逸話も残ります。
後に「示現流」の名は南浦文之によって命名されました。
剣術の名声だけではありません。
重位は、坊泊郷の地頭職に就き、藩内の密事や経済にも関わる信頼を受ける人物でした。
石高400石を与えられたものの、島津忠恒から授けられた1000石のうち600石を返還するなど、質素で謙虚な姿勢を貫いたのです。
その人柄は、剣の腕だけではなく、礼儀正しく温和な人格者として周囲から敬愛されるものでした。
寛永20年(1643年)、83歳で没した東郷重位。
その名は剣術「示現流」を生み出した武人としてだけでなく、武士としての徳を備えた一生を描いた人物として、後世に語り継がれています。