【九州三国志】肥後一揆、国人と領主の悲劇!検地の矛盾、刀狩令へ繋がるその余波
戦国時代、肥後国は守護菊池氏の衰退後、国人衆が割拠する不安定な情勢が続いていました。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐により肥後は島津氏の支配から解放され、秀吉の家臣である佐々成政が新たな領主となったのです。
しかし、成政が性急に検地を進めたことで国人の不満が噴出し、一揆が勃発することとなります。
背景には九州国分における旧領復帰の不公平さもあり、元親島津派と元親大友派の国人衆の対立が新たな火種となっていました。
同年7月、隈部親永・親泰父子が秀吉の朱印状を盾に検地を拒否し挙兵すると、成政は隈府城を攻撃して落城させました。
親永はさらに城村城へ逃れ抗戦を続け、これを契機に肥後国人衆は次々と蜂起、国人35,000余りが一揆に加わったのです。
彼らは隈本城を包囲し、成政の軍勢を窮地に追い込みます。
成政は秀吉に救援を求めたものの、鍋島直茂や安国寺恵瓊らの援軍も失敗に終わり、事態は泥沼化したのです。
一揆鎮圧の転機は、立花宗茂と高橋直次兄弟の参陣でした。
彼らの軍勢は伏兵を察知し、逆用する巧妙な戦略を駆使して敵を撃破。
補給作戦を成功させ、1日に13度の戦闘で7城を攻略するなど、圧倒的な戦果を挙げました。
その後、秀吉は九州・四国の大名を総動員し、小早川秀包を総大将とする討伐軍を送り込んだのです。
12月、田中城を落とし、続いて城村城を攻略することで一揆を鎮圧しました。
しかし、この勝利は大きな代償を伴いました。
翌年、佐々成政は一揆を招いた責任を問われ、尼崎で切腹を命じられます。
隈部親永ら一揆の首謀者は戦死や処刑で粛清され、多くの国人が命を失ったのです。
一揆に参加しなかった国人でさえも許されず、一部は筑前国に追放されるなど厳しい処罰が行われました。
肥後の支配は加藤清正と小西行長に分割され、新たな秩序が築かれることとなります。
また、この一揆は豊臣政権の政策に影響を与えました。
一揆に農民が多く加わり、彼らが刀や脇差しを所有していたことが鎮圧を困難にしたため、秀吉は天正16年(1588年)に「刀狩令」を発布します。
名目上は方広寺大仏の建設資材のためとしていたものの、実際には農民から武器を奪うことを目的とした政策でした。
肥後一揆は、領主の急激な支配がもたらした国人の反乱であり、また統治の矛盾があぶり出された事件でもありました。
その余波は刀狩令という形で日本全土に広がり、豊臣政権の統治体制に深い影響を与えることとなったのです。