【九州三国志】樺山三代、風雅と武勇を織りなす物語!家名を守り抜いた父子の軌跡とその光と影
樺山善久は永正10年(1513年)、島津家の一族樺山氏の嫡男として生まれます。
彼は武勇と風雅を兼ね備えた人物で、主君・島津忠良の次女御隅を娶り、島津宗家との絆を深めました。
和歌や蹴鞠をたしなむ文化人でもあり、近衛稙家から古今伝授を受けるなど、宮廷文化にも精通していたのです。
戦場でもその才能は遺憾なく発揮され、湯田口合戦で敵将を討ち取るなど数々の戦功を挙げ、大隅国の領地を与えられます。
その一方で、敵とのやり取りに返歌を詠むような風雅も忘れなかったのです。
老いてもなお義久の平癒を祈り和歌百首を詠むなど、信義と雅を貫いた善久は文禄4年(1595年)、83歳でその生涯を閉じました。
次代を継いだ樺山忠助は、戦場でその名を轟かせた武勇の人でした。
天正元年(1573年)、肝付氏との戦で大勝を収め、天正12年(1584年)の岩屋城攻めでは、敵の矢玉を浴びながら奮戦し城を陥落させたのです。
犬追物の達者としても知られ、島津氏を訪れた琉球の使者の前でその腕前を披露するなど、軍事のみならず外交の場でも活躍しました。
一方で妹が島津家久の妻であったことから、家久と行動を共にすることが多く、『樺山紹劔自記』には島津四兄弟間の確執を示唆する記述も残しています。
慶長14年(1609年)、忠助は出水にて病没。
島津家を支え続けたその献身は、生涯にわたり尽きることがありませんでした。
樺山久高は永禄3年(1560年)、忠助の次男として誕生します。
島津氏の重臣・大野忠宗の婿養子となり、「大野忠高」と名乗っていたものの、戦功を重ねる中で樺山氏に復します。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いや堅志田城攻めでの奮戦、さらには岩屋城攻めでは一番首を挙げるなど、父譲りの武勇を発揮しました。
豊臣秀吉の九州征伐を経て島津氏が降伏すると、小田原征伐や文禄・慶長の役での活躍が評価され、家老として200石を加増されます。
琉球侵攻では首里城を落とすなどの功績を挙げ、島津氏の南国支配を確立したのです。
しかし、久高の晩年は決して安穏ではありませんでした。
跡取りの息子に先立たれ、領地の加増を訴えるも主君に無視されるなど、不遇の日々を送ります。
寛永11年(1634年)、失意の中でその生涯を閉じた久高。
彼の跡は次代に託されたものの、三代にわたる樺山家の軌跡は、武士としての誇りと家名を守るために尽くした壮絶な物語そのものです。