【京都市上京区】京の都の防波堤 造ったのはやっぱり太閤さん。北野天神さんにも残ってます。
2021年8月20日、京都もまた緊急事態宣言下に置かれることになりましたね。早く収まってほしいと願うばかりです。人に会わないようにしながら早朝ロードサイクルに出かけました。北野天満宮に立ち寄ると、手水が8月から花玉手水に代わっています。静かな境内で心洗われるような気持ちで見入っていました。
さて、これで記事が終わってしまいそうなので、うんちくを少し。豊臣秀吉は京都を抑えるとすぐにも、妙顕寺城や聚楽第、京大仏の建設、天正の町割りをはじめ、京都の大改造に乗り出しました。その一つが、寺町通と御土居の建設です。
天正年間(1573年~1593年)の京は、上京と下京が町になっていました。それぞれが組に分かれており、塀などで囲われていて、通りや筋に当たる場所には木戸の門が設置され、惣構が形成されていたのです。一町ごとに、塀に突き当たるような城塞状態でした。実は本能寺の変でも、明智軍がこの惣構をどう突破したのかが謎の一つでもあるのですが、ドラマ等でも描かれたことはないですね。
変の後、京都を掌握した秀吉は、この惣構をすべて取り払い、都全体を囲ったのです。北は寺の内通り、東には寺町通りを造り、妙顕寺、妙蓮寺、本能寺など、主に法華の寺を移転させ、防波堤とします。諸説ありますが、陰陽道に基づいて、鬼門を固めたとも、端っこに寺社を固めると京の町を攻めにくいと考えたとも。では、西と南はどうしたか。暴れ川も多く、治水のためもあって、「御土居」または「土居堀」と呼ばれる堀と土塁の堤防で取り囲んだのでした。
北野天満宮の拝殿から西側の門をくぐると、境内の西側には御土居の史跡が広がっています。安土桃山時代、東は鴨川右岸、北は鷹が峰、西は紙屋川左岸、南は九条通で、全長22.5kmに及ぶ広がりを見せました。江戸時代と明治維新で取り壊され、現在は市内十数箇所に跡が残るだけとなっています。
北野天満宮の御土居は近年整備され、紅葉の時期には、御土居の紅葉として親しまれています。北野天満宮の北門を出たところに石仏が奉られていますが、この石仏は、破壊された御土居から掘り出されたものです。ところで、御土居もロケ地によく使われます。現代の事件ドラマなどでもよく遺体があったりするのは、実はここなんです。
北野天満宮 史跡・御土居 京都市上京区馬喰町