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【深読み「鎌倉殿の13人」】他にもいた。源頼朝のもとに馳せ参じた東国の豪族たち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝のもとには、多くの豪族が集まった。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」7回目では、再起を図る源頼朝の姿が描かれていた。頼朝は、多くの東国の御家人に味方になるよう要請していた。その点を深く掘り下げてみよう。

■必死だった源頼朝

 治承4年(1180)に安房国に逃れた源頼朝は、必死になって味方となる豪族を集めようとしていた。上総広常、千葉常胤はその代表であるが、味方が多いことに越したことはない。打倒平氏を実現するには、より多くの軍勢が必要だった。

 同年9月以降、頼朝は有力な武蔵の豪族の豊島清元、葛西清重、江戸重長らに書状を送り、味方になるよう要請した。重長に至っては、石橋山の戦いで敵の大庭景親に従っていたほどなので、頼朝がいかに必死だったかわかるだろう。

 頼朝が味方になるよう要請したのは、武蔵の豪族だけではなかった。下野の豪族・小山朝政、下総の豪族・下河辺行平、上野の豪族・新田義重らにも書状を送り、頼朝に馳せ参じるように要請した。なかでも義重は、同じ源氏の一員でもあった。

 しかし、ことは簡単に運ばなかった。義重は頼朝に返事をすることもなく、本拠の寺尾城(群馬県太田市)で軍勢を集めていた。義重からすれば、頼朝に従うことを潔しとしなかったのだろう。頼朝は伊豆の流人だったので、侮っていた可能性もある。

■なかなか集まらない軍勢

 下野には、足利郡に本拠を置く足利俊綱がいた。この足利氏は源氏ではなく、藤原秀郷の流れを汲む一族だった。俊綱は平氏に与しており、下野国府の民家を焼き払うなどしていた。

 常陸の佐竹氏も、頼朝と同族ではあったが、すぐに馳せ参じることはなかった。

 同年9月20日、頼朝は土屋宗遠を使者として、甲斐の武田信義のもとに遣わした。その内容とは、ただちに北条時政に従って、駿河の黄瀬川付近まで出陣するよう要請したものだ。その後、武田信義も頼朝のもとに参上した。

■頼朝の目算

 すでに、安房、上総、下総の3ヵ国の豪族は、おおむね頼朝に従っていた。これに上野、下野、武蔵、甲斐、常陸などの豪族が加われば、打倒平氏の念願が叶う。

 先述したのはあくまで代表的な豪族だが、史料には見えないような小豪族まで声を掛けたに違いない。

 安房、上総、下総の3ヵ国の軍勢は約2万7千、これに上野、下野、武蔵、甲斐、常陸などの軍勢が加われば、約5万になる目算だった。

 約5万もの軍勢がいれば、平氏に対抗するには十分だった。淡い期待を抱きつつ、頼朝は武蔵国に進軍した。

■武蔵の豪族の協力

 頼朝が武蔵国に入国すると、豊島清元、葛西清重、足立遠元らが出迎えた。彼らが頼朝の要請に応じたのは、目論見どおりだったのかもしれない。

 さらに予想外にも、畠山重忠、河越重頼、江戸重長といった豪族も頼朝のもとに馳せ参じた。

 実は、畠山重忠、河越重頼、江戸重長の面々は、石橋山の戦いで大庭景親に与し、頼朝に敵対していた。

 しかも、頼朝に従っていた三浦義明を衣笠城(神奈川県横須賀市)で討っていた。彼らは頼朝に期待し、平氏に失望して見限ったのだろう。

 とはいえ、彼らは頼朝に与した三浦義明を討伐していた。しかし、頼朝はあらかじめ手を打っていた。

 頼朝は三浦一族に対して、「憤りをいつまでも持っていてはいけない」と言い含めていたのだ。したがって、彼らが頼朝に帰参しても、大きなトラブルはなかったのである。

■むすび

 こうして頼朝は、東国の反平氏勢力を糾合することに成功した。約5万の軍勢を率いることで、平氏に対抗しうる軍事力を確保しえたのである。同年10月6日、頼朝は父祖ゆかりの地である鎌倉に入り、打倒平氏の念願に一歩近づいたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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