「ホワイト企業」の定義に対する、とてつもない違和感を公表したい
「ホワイト企業」とは何なのか? 改めて考える
特に若者の離職率が高い企業が「ブラック企業」と呼ばれ、その存在を問題視した政府が対策に乗り出したことで「ブラック企業」という名称はずい分と世間に広まりました。
また、バレンタインデーのお返しにホワイトデーがあるのと同様に、ブラック企業と対極の存在を「ホワイト企業」と呼ぶようです。しかし、「ブラック」もあれば「ホワイト」もある、というように、何でもかんでも言葉を反転させて定義づければいいってもんじゃない、と私は思います。就活生を迷わすだけですので、テキトーな言葉遊びはやめましょう。
学校でイジメをする子を「ブラック生徒」と呼んだら、イジメをしない子を「ホワイト生徒」と呼ぶのでしょうか。そんなことをしたらほとんどの生徒がホワイトになってしまうので、無理やり「学校行事に自ら率先して協力する生徒」「困っている子に積極的に声を掛ける生徒」とかの基準を作ることになるのでしょう。もちろん違和感ありありです。
言葉遊びで一部の人が定義づけるのならまだいいですが、「ホワイト企業ランキング300」なるものが雑誌の特集で毎年公表されるほど、「ホワイト企業」も一般的な名称となりつつあります。社会システムを正しく理解していない人に妙な「物差し」を与え、物事の判断基準にバイアスをかけるだけですので、ここで強い違和感を表明させてもらいます。
離職率が低ければいいのか? ノルマが緩ければいいのか?
ホワイト企業の定義の一つに「離職率」があります。若者の離職率が低ければホワイト企業なのか? 先述の「ブラック生徒」「ホワイト生徒」の話に戻せば、授業への出席率が高い生徒が「ホワイト生徒」となる、ということでしょうか。冗談じゃない、という感じです。
生徒が学校を休む理由が多様にあるのと同じように、従業員が会社を離職する理由もまた多様にあるのです。たとえ会社に不満があって離職したとしても、すべて会社側に責任があるのでしょうか?若者の離職を過剰に恐れることで、正しい組織運営ができなくなるリスクも考えてもらいたい。現実に、若者に強く言えないミドルマネジャーが近年激増しているのです。
ミドルマネジャーのほとんどは、自分の仕事を抱えながら部下育成に励んでいます。学校の先生のように、人を育てることを主業務にしていないため、器用に部下とコミュニケーションをとることのできない管理者のほうが多いことを世間はもっと知るべきです。
また「ブラック企業」を定義づける項目として「厳しいノルマ」というものがあります。他のコラムでも書きましたが、「厳しいノルマ」そのものに問題はありません。「ノルマを達成しないとお前の存在価値はない」とか「ノルマをこなせないようなヤツはクビだ」と罵倒する行為がダメなだけです。
そもそも「厳しいノルマ」の”厳しい”とは、何なのか?個人による主観で判断されるような形容詞にダメ出ししても意味がありません。客観的なデータに基づいた「不可能なノルマ」という表現はあっても、「厳しいノルマ」などという表現は存在しないのです。それこそ、現状ではかなり難しい、ハードルが高い、と思えるノルマがあって、はじめて「イノベーション/革新」は起こるのです。
「厳しいノルマ」を達成させようとしない限り、人も組織も成長しません。個人が「達成感」「成長の実感」「やり甲斐」を味わうこともないのです。
「ホワイト企業」の定義は「いい会社」の定義と異なる
それにしても、なぜこのような「ホワイト企業」という言葉が登場したのでしょうか? 「ブラック企業」を敵対視する専門家が、経営とは何か? ビジネスとは何か? を知らず、感情的に作った造語が、知らず知らずのうちに広まったせいではないかと私は考えています。
ということで、もう「ホワイト企業」という名称を使うのはやめましょう、と私は呼びかけたい。この言葉を使っている限り、「ブラック企業」の定義を反転させてしまいたくなるからです。「ブラック企業」の定義は無視して、「良い会社」「いい会社」とは何なのか? どういう会社が長く社会に貢献し、従業員やその家族が満足するような働き方を提示するのか、そのことに真剣に向き合い、定義づければいいのです。
多くの経営コンサルタントは、「良い会社」「いい会社」になってもらいたくて、財務や人事、労務、マーケティング……といった切り口で企業支援をします。離職率を落とすことを目標にしたり、ノルマを緩くする支援をする経営コンサルタントなど存在しません。
まだ社会を多く知らない「就活生」が、就職先を選ぶひとつの物差しにもなっています。ですからあえて私は言いたい。「ホワイト企業」の定義など忘れてください、と。「ホワイト企業」の定義は、真に従業員のやる気を向上させ、長きにわたって社会に貢献させるようなものになっていないのですから。