コロナ用漢方薬が脚光 知られざる台湾漢方、苦難の歴史。
台湾には漢方薬材店が軒を連ね、観光地としても有名な迪化街がある。街中の漢方医(中医)に通い、日常的に漢方薬を服用している人は少なくない。筆者自身、漢方薬材店へ取材で伺ったことは何度もある。だが、こうした制度が整うまでには、長い苦難の歴史があった。
台湾大学に次ぐ大学で行われた展示
先月、イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education(THE)」で世界の大学ランキングが発表された(リンク)。世界104カ国の大学のうち1,799校が参加し、研究力、国際性などの指標をもとに大学の力を比較したもの。台湾からは今年、過去最多の43校がランク入りした。台湾トップは台湾大学で、その次に入ったのが「中国医薬大学」である。
中国医薬大学は、1958年に「中国医薬学院」として設立され、2003年に改称した私立大学である。医学部、薬学部など8つの学部、23学科、修士課程34、博士課程20、さらには台中の他、新竹、雲林と台南などに付属病院もある教育医療施設だ。全体で7,000人を超える学生が学ぶ。
今回の目当ては、学内にある「立夫中医薬博物館」とそのロビーで行われた「防疫抗疫〜中医方薬特展」。同館は台湾で唯一、中医学と漢方薬をテーマにした博物館だ。当該の展示は終了したが、内容はつまり、コロナ対策として台湾内の6つの医療機関で実際に処方されていた漢方薬の紹介だった。その展示を企画から担当したのは、博物館副館長の張文徳さんである。
「実は5月18日は『世界博物館の日』なんです。それで、台中市からそれに合わせて何か展示をやってみては、という話から企画したものでした」
コロナ用漢方薬が注目された背景
張さんが「実は」と断るのには、台湾ならではの理由がある。
展示開始の直前から台湾の感染者数は一気に増え、5月27日には1日あたり感染者数は最高9万4,808人にまで拡大し、感染者数はピークを迎えた。大半は軽症とはいえ、コロナ禍としては最高の感染者数を叩き出していた。
展示には「台湾清冠一号」という、政府認可を受けたコロナ用の漢方薬が含まれていた。新型コロナは台湾で「新冠肺炎」といわれるので、つまりは「新型コロナを清める薬の第一号」となる。台湾で各種報道があるものの、今ひとつよくわからずにいたのだが、縁あって張さんという専門家に話を伺う機会を得た。
清冠一号を研究開発したのは、日本の旧厚生省にあたる衛生福利部の研究機構で、国家中医薬研究所である。その製造認可が与えられたのは衛生福利部に委託された製薬会社8社のみで、それ以外は認められていない。開発当初、台湾内ではまだ正式な薬としての認可を受けておらず、販売できなかったため、先に海外向けに輸出販売がなされていた。このため当初のパッケージは英語表記だったが、今は台湾でも認可が下りて、中国語のパッケージもある。
新型コロナ当初から連日行われている台湾CDC(中央流行疫情指揮中心)会見では、今年4月13日、台湾で医薬品として認可(EUA: 緊急使用許可)を受けた2021年5月以降の分析結果が国家中医薬研究所所長の蘇奕彰氏によって報告された。それによれば、清冠一号はすでに50カ国へ輸出され、台湾内でも西洋医と漢方医が主治医となったケースをもとに600以上の使用例の分析結果などによって、効き目が良好であることが報告された。
感染者には、漢方医を通じて清冠一号の保険適用も認められている。急激な感染者増で一気にニーズが高まり、一時は入手困難になるほどであった。感染ピークが予測された5月23日、中医薬研究所と製造メーカー8社らが会見を行い、マスクマップよろしく、1,391にのぼる診療所の薬の保持状況が公開された(リンク)。このようにして公的データを可視化し、かつ情報公開するあたりは、さすがである。
つまり「実は」には、こうした状況下で、偶然にもスタートした展示だった、という意味が込められていた。
展示によって知る漢方薬の存在感
展示には、博物館の声がけで国家中医薬研究所も含めた台湾の6つの医療機関が参画していた。展示開始を耳にした別の病院からは「声をかけてほしかった」という声があがった。各地の病院で漢方処方が行われている証だ。
展示内容は主に、6つの医療機関で新型コロナに対し、どのような点を重視して治療薬が処方されたのか、という概要が示された。
たとえば清冠一号は、中国が明の時代だった1550年に刊行された書物にある「荊防敗毒散」という漢方薬の処方せん。発熱による悪寒、頭痛、鼻詰まり、せきやたんなどの症状に対応する内容で、それをもとに、コロナによる症状を緩和させる効能をもつ。今から472年も前に考えられたものが、現代にも生かされたわけだ。長い時を経て、台湾で処方が生きていることに深い感動を覚えた。
話は逸れるが、中国ドラマを見ていると、昔の中国でも疫病はたびたび発生していたことが理解できる。漢方医の後宮内での地位も垣間見え、権力闘争の渦中で漢方医が手を貸す、なんてのもザラだ。だがそうやって重ねられた知見が長い長い時を経て伝承されていることもまた、得難いことだろう。
驚いたのは、参加した6つの医療機関がそれぞれに異なる処方をしていたことだ。主に軽症者への治療薬として認可を受けたのが清冠一号なら、独自の処方でふだんの免疫力を上げるため、お茶として飲めるような形へと発展させたもの、子どもも飲めるようにしてほしいというニーズに対応して飲みやすさが考慮され、顆粒型に加工されたものなど、さまざまなタイプがあった。
大型の病院に漢方医の診療科が設けられており、漢方医の処方が受けられる、というのも、普段病院に行きつけない身としては非常に新鮮に映った。
ところが、である。
展示を見終わり、常設の博物館「立夫中医薬博物館」で、張さんと学生さんから台湾における漢方医の歴史を教わって愕然とした。
台湾における漢方医の歩み
台湾統治40周年を記念してまとめられた史料に、こんなくだりがある。
ここでいう医師は西洋医を、医生は漢方医を指す。当該の史料には、極端なまでの増減がどのようにして行われたのか具体的な説明はない。
張さんの話をもとに、当時の公文書や新聞報道をひも解いた。
1901年「台湾医生免許規則」なる法令が敷かれている。この法令は、日本が台湾統治を始めた1895年よりも前から漢方医を開業していた人だけが登録申請資格を持ち、地方長官が「適当と認め」た者だけが免許証を受け取れる決まりだった。その後、台湾総督府は西洋医の養成に力を入れ、総督府医学校から卒業生が出ると、新たな免許を出さなくなった——数字の逆転が起きたのは当然だった。最初から仕組まれていた、と受け止めてよいだろう。
1929年、台湾全土の漢方薬材商が立ち上がり、「漢方医術開業試験法制定請願」を計画、時の貴族院と衆議院に提出した。しかし、ほどなくして拓務省は「認めぬ意向」と伝えられている。それがどうだろう。1938年の新聞には「漢方医を養成して/大陸へ仁術部隊/医術による日支親善」という見出しが踊る。
では、どのようにして、今のような西洋医も漢方医もいる体制が築かれていったのか。始まりは1928年に遡る。
西洋医学と中医学を融合させた起源
「漢医が西医を貶し、西医が漢医を軽視侮蔑することは通常であった」
1928年、そう書いたのは台湾人医師、杜聡明(1893-1986)である。日本統治開始の2年前に生まれ、京都帝国大学などで医学を学び、台湾人として初めて博士号を取得した人物だ。
当時は台湾総督府の許可なしに新聞や雑誌の刊行はできなかった。『台湾青年』を前身とする『台湾民報』は、台湾人の刊行する言論の場だった。その雑誌上で杜氏は、漢方医と西洋医が連携して治療を行う医院の設立を表明した。台湾初の試みである。
2つの医学が相対する中での表明は、快く思われなかったようだ。真っ向から否定する記事が出て、杜氏は「漢医学の研究方法に関する考察」と題して、1928年7月2日号から翌3月31日号まで31回に渡り、同誌で設立背景と研究の必要性を訴えた。
こうした中で持ち上がったのが、「漢方医術試験法」の制定を求める声だった。請願には、医薬業者500人余り、地方の有力者1,250人が署名したという。少なくない数だが、認められなかった。政府の反対は「医学の基本的知識の欠如」が理由だったと伝えられている。より正確にいえば「西洋医学の知識の欠如」ということだろう。
日本人が台湾から引き揚げた後も、杜氏は中医学の再建に力を注いだ。1946年に台湾大学附設医院の院長に就任して漢薬治療科設立を試みるも実現できず、1954年になって私立高雄医学院を設立し、薬理学教室を開いた。この時、台湾ではじめて「現代医学の教育体制の中に、中医薬の課程が加えられた」。
それから約40年。「国家として全国民の健康保険を推進し、並びに現代と伝統医薬の研究発展を促進する」という中医薬の発展促進に関する条文が法律に盛り込まれたのは1992年5月の憲法改正でのこと。杜聡明氏の逝去から6年が経っていた。
後遺症に漢方薬という心強さ
今、台湾で漢方医になるには、西洋医学の基本的な知識と中医学の専門的な知識の両方を持っていないと、開業できない。
筆者自身、西洋医学は対処法、中医学は慢性病対応、といった大雑把な理解でいたが、張さんに「西洋医が病んだ部位のみを見るのに対して、漢方医は系統で捉える」と教わり、改めて西洋と東洋の考え方、根本的なアプローチの違いに気づかされた。ひとつの事実に対し、さまざまな見方や考え方があるくらいだから、人の体を見る際にも、さまざまな捉え方があるのはむしろ当然ではないか——そう思うのは筆者が素人だからだろうか。
つい最近、新型コロナに罹患した在台日本人の友人が言っていた。「症状は落ち着いたし、陰性になったんだけど、まだせきが残っているから、今は漢方医に通っている」。未知の疫病に対して、長年の蓄積から得た知見をもとに、さまざまなアプローチから捉え、対処する策があるのは、とても心強い気がした。