追悼 コービー・ブライアント
あのコービー・ブライアントが亡くなった。引退から4年が経つが、先日、本コーナーで彼に触れたばかりであったhttps://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20200119-00159446/。
アメリカ西部時間、26日(日)の午前、搭乗していたヘリコプターがクラッシュし、墜落したのだ。コービー、コービーの13歳の娘、オレンジ・コースト大のベースボールコーチなど8名の乗客と、パイロットの計9名が亡くなった。
ロスアンゼルス消防署が緊急連絡を受けたのは現地時間26日(日)の午前10時前。消防隊が事故現場に駆け付けると、ヘリの残骸が散らばり、その周辺に火が上がっている様を発見。救急隊は急いで傍に寄るが、9名全員の死亡を確認した。
速報が、全米はもちろん、全世界に伝えられた。
コービーは、その負けん気の強さで若手時代にシャキール・オニールとぶつかることもあったが、外しても外してもシュートを打ち続ける強いメンタルこそが、彼をNBAの頂点まで導いた。
5度NBAチャンピオンになるだけでなく、入院中の白血病患者を見舞って励ますような社会貢献も忘れなかった。
父のジョー・ブライアントがフィラデルフィア・セブンティシクサーズに在籍していた1978年8月23日、2人の姉に続く3子としてコービーは生を享ける。両親は後のバスケット界のスーパースターが誕生する前、同州にあったステーキ屋で「神戸牛」を食し、その味に感激していた。「この牛ように心を込めて育てたい」との気持ちで息子に「KOBE」と名付けたとされる。
コービーが6歳の頃、ジョーはイタリアリーグでプレーするようになり、一家で移住する。幼いながらもNBAよりかなりレベルが劣っていることを理解したコービーは、イタリア人選手を前に「いつか、僕がバスケのプレーを教えてあげるよ!」と語った。
コービーはイタリア語をマスターし、現地でサッカーも経験した。試合前のウォーミングアップで会場に姿を現したコービーが、何度かリフティングを披露し、観客を沸かせたことがある。サッカーファンを公言し、五輪等で顔を合わせたリオネル・メッシらとも親交を深めた。
デビュー時から2001ー02年シーズン終盤まではアディダスと契約し、広告塔となっていたが、やがてナイキを選ぶ。その折にも通常のバスケットシューズには見られないローカットを好み「サッカースパイクの品質を参考にしているんだ」と話した。
22歳で18歳の花嫁を娶ったコービーは、両親&姉と妻との確執に巻き込まれ、血縁者との関係を冷めたものにしてしまう。そんな姿から「毀誉褒貶相半ばするスター」像を作り上げていったが、2000年代のNBAの主役であったのは間違いない。現NBAのKINGであるレブロン・ジェームズも、コービーとの闘いによって、大きく成長した。
あのスーパースターが41歳という若さで、呆気なく永眠してしまうのか……と戸惑うばかりだ。現在のNBA選手は、全員が少なからずコービーに影響を受けている。いや、世界中のバスケットボールファンに夢を与えた男だ。
今はただ、ご冥福をお祈り申し上げます。