愛子さまへとつながる皇室独自の文化 「ボンボニエール」の130年
来月1日には、令和の時代となって5年目に入る。
思えば、令和元年、天皇皇后両陛下はじめ皇室の方々が伝統的な装束や十二単に身を包み、厳かに執り行われた行事は平安絵巻さながらで、ため息が出るほどであった。皇室は今の世へと日本の雅やかな文化を受け継いでいることを感じた人も多かったのではないだろうか。
皇室が守り続けてきた文化といえば、毎年1月に開催される歌会始の儀や、岐阜県の長良川で日本の古代漁法として伝承されてきた鵜飼、平安時代から天皇のお住まいだった京都御所などなど、あらゆる分野に及ぶ。どれも古の日本に触れることができる、貴重なものばかりだ。
◆皇室から始まった日本のボンボニエール
その中でも、一般的にはあまり知られていないが、明治以来、皇室の文化として独自に発展してきたものがある。掌に載るほど小さく、一つひとつに繊細なデザインが施された銀製のお菓子入れ、「ボンボニエール」である。
ヨーロッパでは、古くから結婚や誕生日などのお祝い事で、砂糖菓子を贈ることが慣例のようになっている。比較的裕福な層の人々は、その砂糖菓子を入れる器、つまりボンボニエールとともに、思い出の品としてプレゼントしているのだという。
慶びの記憶を心にいつまでも留める記念品、ボンボニエールは、贈る人と贈られる人の絆をも深めるものだ。
そんなボンボニエールが、日本で慶事に用いられる贈り物となったのは、急速に西欧化を進めていた明治22年2月11日のこと。
大日本帝国憲法発布式にともなう晩さん会で、食後のプティフール(一口サイズの洋菓子)が美しく装飾された銀製の小さな箱に入れられ、参列者に配られたのである。
この銀の箱こそが、日本初のボンボニエールと言われ、以後、皇室でも慶事の贈り物としても作られるようになっていった。
◆皇室のボンボニエールは独自に進化
ヨーロッパではドラジェやコンフィズリー(砂糖菓子)などが入る幾分大きな器だが、日本のボンボニエールは、主に金平糖入れとして考えられ、手の中に納まる小さな器に、凝った意匠が施されるようになった。
そもそも日本人は独自の文化と言われる根付をはじめ、盆栽や箱庭など、小さなものに職人の技巧を凝らした物を好む傾向がある。日本版のボンボニエールもまた、金細工職人の匠の技が光る工芸品だ。
それにしても、なぜ金平糖入れとなったのか、ボンボニエールの歴史に詳しい、学習院大学史料館の学芸員・長佐古美奈子さんに伺うと、意外な事実を語ってくれた。
「明治天皇は金平糖をお好きだったようです。そのため金平糖をよくお遣い物にしていらっしゃいました。ボンボニエールが日本では金平糖入れとして使われるようになったのは、明治天皇が好まれたという背景もあったのかもしれません」
そして金属工芸品としてのボンボニエールに着目したのは、別の理由もあるという。
「明治の廃刀令で刀飾職人たちが職を失ったことから、職人の生活支援と、代々高度な匠の技を継承してきた分野ですから、それを維持する側面もあったと思います」
◆幻か!?愛子さま成年のボンボニエール
そんな歴史を持つボンボニエールは、皇室の慶事の際、その時に合わせて趣向を凝らしたオリジナルのデザインのものが作られてきた。
たとえば、天皇陛下と雅子さまの結婚式に際しては、夫婦円満を表す「おしどり」をデザインしたボンボニエールが作られ、祝宴などの引き出物として配られた。
愛子さま4歳の時、初めてはかまを身につける「着袴の儀」に臨まれた時には、星形をした器の表に、お印のゴヨウツツジがデザインされたボンボニエールが作られた。
しかし、2021年12月、愛子さまが成年になられた記念のボンボニエールは、作られたかどうか、実は情報がまったく伝わって来ない。
当時、コロナ禍であったため、感染防止の観点から茶会や祝宴は開かれなかったこともあり、今回は作られなかった可能性もある。
筆者は愛子さまご誕生時から、BSテレ東「皇室の窓スペシャル」の構成を担当してきたが、4月16日の放送で「愛子さま成年のボンボニエール」の所在に迫った。
明治から令和へと時代は変わっても、約130年もの間、ずっと受け継がれてきた慶事の贈り物である皇室のボンボニエール。その歴史の最先端にあると思われるのが「愛子さま成年のボンボニエール」だ。
めぐり合えたかどうか、そして小さなボンボニエ―ルに込められた世界観について、次回、お伝えしたいと思う。
「ついに発見!愛子さま成年のボンボニエール その珍しい特徴とは?」
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsugenoriko/20230417-00345019