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愛子さま初の単独地方公務で浮かび上がる 「献血を支えた皇室」の伝統とは?

つげのり子放送作家、ノンフィクション作家(テーマ:皇室)
愛子さま(写真:毎日新聞社/アフロ)

先月、愛子さまは初めての単独地方公務として、地震の被害にあった能登半島を訪問される予定であったが、甚大な大雨被害が発生し、やむなく取りやめとなった。きょう10月11日からは一泊二日の予定で、国民スポーツ大会を開催中の佐賀県を訪問し、陸上競技や柔道競技を観戦される。

また、「佐賀城本丸歴史館」をはじめ、「佐賀県赤十字血液センター」や伝統工芸の「名尾手すき和紙」の工房も視察される予定だという。

中でも愛子さまにとって、「佐賀県赤十字血液センター」は、ご自身も日本赤十字社の社員でもあることから、熱心にご覧になるのではないだろうか。

それは戦後の皇室が献血を積極的に実践し、その理解と啓蒙に尽力していたことにも関連してくる。

なぜなら皇室による献血運動への支援は、戦後、愛子さまの曾祖母である香淳皇后によって進められていたのだ。

◆かつてあった血液を巡る問題

戦後の昭和20年代、当時は民間業者による血液の売買があり、経済的に困窮している人々が、自らの血を売って幾何かの現金を手に入れていた。これによって売血者の健康が害され、血液の管理も杜撰で感染症が発生するなど、大きな社会問題となっていたという。

このまま民間業者による血液の売買を放置すれば、問題の解決は遠のくばかり。そこで政府や地方自治体の後押しもあって、日赤による血液事業が始まっていった。

この献血事業に率先して協力したのが、皇室であった。皇室の方々は、献血のため日赤センターを訪れたり、移動献血車の中で協力したり、その様子はニュースとなって国民の献血への理解を促進させていった。

さらに香淳皇后は、献血によって一人でも多くの人命を救いたいと、心をこめてお歌を詠まれている。そのお歌にメロディがつけられ、「献血のうた」として今も歌い継がれている。

「見るがうちに よみがへりゆく 肌の色に ささげつる血の たふとさを思ふ」

「数多き人の 命をすくふべく 血しほいださな きそひたちつつ」

最初のお歌は、輸血によって見る見る肌に赤みが差す血液の尊さに思いを寄せ、次のお歌は、多くの人命を救うべく、競うように献血をする様子を詠まれている。

もちろん愛子さまは、皇室が貢献してきた献血の歴史も知っておられるだろう。また曾祖母の香淳皇后のお歌が、今も日赤の献血活動にとって大きな礎となっていることも、深く胸に刻まれているに違いない。

実は、雅子さまの初めての地方公務は、ご結婚された翌月の1993年7月。陛下(当時は皇太子)とともに、「第29回献血運動推進全国大会」に出席するため、盛岡市にある「岩手県赤十字血液センター」などを訪問されたことだった。

もしかしたら愛子さまは、母・雅子さまの初の地方公務を意識されたのかもしれない。それ以上に皇室の一員として、また日赤の一社員として、国民の健康を支える献血への理解を促す意味でも、「佐賀県赤十字血液センター」のご訪問は必然だったのだろう。

◆献血者数の減少が課題に

献血への協力者は年々減少傾向にあり、この10年間で10代から30代の献血協力者数は、約80万人も減少しているという。

以前は公共の場所や施設でよく目にしていた献血バスも、最近見てないような気がする。

コロナ禍によって献血バスの派遣が中止になり、オンラインでの勤務が多くなって、献血を具体的に知る機会を逸してしまったという、社会的な背景が献血者減少の要因と言われている。

献血運動の一層の推進を図ることを目的として、1965年から毎年行われている「献血運動推進全国大会」は、長年にわたり皇室の普及活動に支えられてきた。そうした活動が実を結び、1974年には、輸血用血液製剤のすべてを献血で賄えるようになったという。

国民の健康を熱心に考えられ、香淳皇后から代々受け継がれてきた献血への思いは、今、愛子さまの胸の中で強く大きく育っているようだ。

放送作家、ノンフィクション作家(テーマ:皇室)

2001年の愛子内親王ご誕生以来、皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。西武文理大学非常勤講師。日本放送作家協会、日本脚本家連盟、日本メディア学会会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)などがある。

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