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木村義雄、升田幸三、米長邦雄、そして藤井聡太 名棋士は将棋を高い山にたとえて、どう語ってきたか

松本博文将棋ライター
水ケ塚公園からの富士山(写真:イメージマート)

 藤井さんは、富士山で何合目ぐらいに登っているイメージがありますか。

 そんな問いかけに、史上最年少五冠を達成した藤井聡太新王将(19歳)の言葉が話題となりました。

藤井「将棋というのはとても奥が深いゲームで・・・。本当にどこが頂上なのかというのもまったく見えないわけなので。頂上が見えないという点では森林限界の手前というか、まだまだやっぱり、上の方には行けていないのかな、とは思います」

 藤井新王将はそんなふうに語っていました。「森林限界」という表現は新手です。この言葉もまた、将棋史に残ることでしょう。

 木村義雄14世名人(1905-86)は名人在位中に記した「私の念願」という一文で次のように語っています。

 実力名人戦が出来たおかげで、私は名人と呼ばれるやうになつたが、実は、私の一番辛いことは、人様から名人々々と云はれることである。

 これは決して衒(てら)つてゐるのではないが、私の将棋などはとても名人の将棋ではないと思つてゐる。将棋はまだ/\深遠なものだ。

 将棋を富士山にたとへるなら、私の将棋などはやつと山麓に達したか、贔屓目に見て、二合目か三合目に差しかゝつたところであらう。

 しかし、富士山なら何処(どこ)が頂点か分つてゐるが、私の登つてゐる山は何処が頂上か分らない、高く、そして険しい山だ。

(出典:木村義雄『勝負の世界』1951年刊)

 将棋史上一番の名文家は木村14世名人ではないか。筆者(この原稿を書いている私)はそう思っています。その格調の高さはかくのごとしで、将棋の真理を探求しようとする姿勢は、後進にも大きく影響を与えているのでしょう。

 名人はずっと、将棋界の頂点にたとえられてきました。たしかに古来、名人位に就く者は将棋指しの頂点に君臨する存在です。

 しかし将棋の究極の真理を山の頂上と定義するならば、名人もまた山を登る者の一人に過ぎないということなのでしょう。そして頂上すら見えない、という点では古今のトップの見解は一致しているわけです。

 私が名人になれたからと云つて、私がそこで一服したり進まなければ、後から踉(つ)いてくる者は私のゐるところ迄しか来られない。私が現在ゐるところから少しでも進んで薄明りをつけておけば、後進は必ずそこ迄は来られる。そして私が若し倒れた時には、その屍を越えて攀上(よじのぼ)つてくれるかもしれない。さうして一歩でもよい、前進して後進の為に薄明りをつけることが、最高の位置を与へられた者の責任である。

 私自身としても、棋道を志したからは、何処まで行けるか、行きつくところ迄分け入りたい。そこには谷があるか岩があるか、或ひは猛獣がひそんでゐるかも知れないが、それを探りながら登つてゆきたい。それには、技術の面ばかりでなく、種々の知識の助けもかりなければならないかも知れない。私はそれも探つてゆきたい。

 これが私の念願である。

(出典:木村義雄『勝負の世界』1951年刊)

 約七十年後に発せられた藤井新王将の言葉はほぼ、以上の一文に呼応していると言えそうです。 

 升田幸三元名人(1918-91)は、次のように記しています。

「私も、まだまだまだ将棋、わかっとらんですよ。だからぼくは、三タイトルとったり、名人を香落ちに指しこんだりして勝ったときに書いたのが、

――たどりきて未(いま)だ山麓

という言葉でしたよ」

(出典:升田幸三『勝負』1970年刊)

「たどりきて未だ山麓」は将棋史に残る、名言中の名言です。藤井新王将の「森林限界の手前」という言葉を聞いて、多くの人がその言葉を思い起こしました。

 木村、升田は張り合う仲で、性格は合わなかったようです。それでもやはり達人同士、通じ合うところは多くあったのだろうと感じさせられます。

 比喩に富士山を用いる例としては、米長邦雄永世棋聖(1943-2012)の言葉が挙げられます。

 何年か前、米長はこう言った。「技術的には現A級は百メートルを皆10秒1で走っている。今後よほどの天才でも現れない限り9秒7や8はなかなか出ないだろう。その意味で技術を富士山に例えれば、我々はまだ一合目かもしれない」

(出典:中平邦彦『名人谷川浩司』1984年刊)

 山麓か。何合目か。それとも森林限界の手前か。その表現の違いを細かく解釈して、将棋術の進歩を感じる人もいるかもしれません。木村、升田は強かった。ただしその時代と現代とを比べれば、総体的に将棋の技術は向上しているでしょう。山麓から富士山の森林限界、すなわち五合目あたりにまで到達した、という解釈もネット上では見られました。

 筆者の私見では、表現は多少変われど、古今の名棋士が抱いている、将棋の真理という山の頂上はあまりにも高いというイメージは、昔もいまもほとんど変わっていないように思われます。

 将来の人類のトップクラスははたして、どのような表現を用いて自分たちの位置を表すのか。

 それはもしかしたら、森林限界の先かもしれません。「二人零和有限確定完全情報ゲーム」である将棋の結論は、先手必勝、後手必勝、引き分けのいずれかです。もしそれが解明できたとすれば、ついに山の頂上が見えたといえるかもしれません。

 あるいはもしかしたら、将棋術の発展によって、頂上の高さはさらに想像を超えるものだった、と明らかになるのかもしれません。その場合には、山麓からも遠ざかった場所が示される可能性もあるのでしょうか。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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