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平成最後の元旦に男が原宿で無差別殺傷を狙った事件の気になるその後

篠田博之月刊『創』編集長
事件を詳しく報じた「週刊新潮」1月17日号(筆者撮影)

 いささか気になるのは、平成最後の元旦のカウントダウン直後に原宿に車で突っ込んで無差別殺傷事件を起こそうとした男と事件の成り行きだ。その後、あまり報道がなされないので忘れてしまった人もいるかもしれないが、この事件は一歩間違えると大惨事になっていた可能性が極めて高い。初詣客でごった返す明治神宮で灯油に火をつけて噴霧しようとして失敗し、原宿竹下通りに車で突っ込むという凄惨な事件だった。

 平成時代は宮崎勤死刑囚(既に執行)の連続幼女殺害事件で幕開け、そしてこの無差別殺傷事件で幕を閉じる。これは極めて象徴的なのだが、気になるのは原宿の事件の今後の展開だ。

 なぜ報道が縮小しているかといえば、逮捕された男性は1月16日から鑑定留置となった。そこで精神鑑定が行われるのだが、なんらかの精神的疾患の疑いがあるので、刑事責任能力なしで、不起訴となる恐れがある。事件直後は実名顔写真報道だったが、責任能力なしとなると、報道そのものがパタッとなくなってしまう。現時点で既に報道がなされなくなりつつあるのは、そのことへの配慮が働き始めているからだろう。

 なぜ報道されなくなるかというと、精神的疾患と犯罪を連関させて報道されると、その病気に対する偏見を助長し、差別を増幅する恐れがあるからだ。この判断は間違っていないし、そういう配慮は必要だと思う。ただ以前から疑問を感じるのは、報道そのものがなくなり、事件が封印されてしまうという今のあり方だ。本当にそれでよいのだろうかと思う。仮に何らかの精神的疾患が原因だったとしても、事件に時代や社会が映し出されている可能性はあるし、差別を増幅しないように工夫して報道することだってできると思うのだ。むしろ封印してしまうことの方が、ある意味で差別意識の裏返しであるような気もしないではない。

 この間、この容疑者の報道を比較的詳細に行ったのは『週刊新潮』1月17日号だ。見出しが「放置したから『元旦テロリスト』に化けたイカレ男の履歴書」だ。「放置したから」という表現にも見られるように、同誌は、こういう人物を人権的配慮ゆえに放置しておいてよいのかというキャンペーンを、この種の事件ではいつも展開する。そういう人権派叩きの角度からの報道だけなされ、人権尊重派と目される媒体がいっさい黙ってしまうという、この構図は全く不幸なことだと言わなければならない。

 昨年11月頃から、私は「平成を振り返る」ふうの幾つかのマスコミの企画の取材を受けた。私が12年間、密に関わった連続幼女殺害事件についての取材も幾つかあったため、久々にこの事件についても考える機会があった。

 あの事件は単に昭和から平成の変わり目に起きたというだけでなく、いろいろな意味で時代を反映していたと思う。そもそも1989年2月に宮崎元死刑囚が殺害した女児の遺骨を被害者宅に届けたことで「劇場犯罪」として大きな注目を受けることになったのだが、宮崎自身はどうしてそんな危険を冒したのかについて精神鑑定で聞かれ、昭和天皇のニュースをテレビで見て、女児にも葬式をさせてやりたいと思ったと述べている。事件の展開と天皇の代替わりは結構大きく結びついていたのだ。

 平成の犯罪の特徴は、動機がよくわからず、精神鑑定が大きな意味を持つ凶悪事件が目につくようになったことだ。これは偶然ではなく、社会や価値観が複雑化したことを反映して犯罪が複雑になった現われだと思う。 

 昭和というのは日本人全体がある種共通した社会的価値観を持っていた時代だった。努力すれば豊かになると言われたし、多くの国民が目標を持てた時代だった。ところが、平成に入ってから、バブル崩壊を経て、社会の基本的価値観が単一ないし単純ではなくなった。社会全体が豊かになるのでなく貧富の格差が増大した。それまで正義の味方と思われていた警察官や弁護士が犯罪に関わることが目につくようになった。

 社会の価値観が昭和時代のようにシンプルでなくなり、社会全体に閉塞感や屈折が広がっていく。そうした時代には当然、犯罪も複雑にならざるをえない。社会に不条理が広がれば、社会を写す鏡である犯罪も不条理な要素を強めるというわけだ。その意味で、平成時代が宮崎事件で始まり、原宿事件で幕を閉じるのは象徴的な気がするのだ。

 私が今関わっている相模原障害者殺傷事件など、平成の末期を象徴する極めて深刻な事件だと思う。社会の価値規範の変化や差別といったひずみが、この事件には大きな影を落としている。

 平成時代を象徴するオウム事件にしても、「少年A」による神戸児童殺傷事件にしても、秋葉原無差別殺傷事件にしても、そう簡単に解明などできず、これまでの警察や司法の仕組みだけでは対応が難しいという印象は否めない。秋葉原無差別殺傷事件にしても、加藤智大死刑囚の刑が確定してケリがついたことになってはいるが、では果たしてあの事件を起こした動機がきちんと解明されたかというと、そんなことは全くない。

 個人的動機が社会全体への復讐という形に結び付くのもそれらの犯罪の特徴で、池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)など、閉塞状況で自身が追いつめられたことへの反発が、明らかに社会への憎悪となり、社会に復讐して死んでやろうという意思が感じられる。

 これも私が深く関わった「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人が言っていたが、自分が死んでしまおうと覚悟すれば「無敵の人」となり、最期に無差別殺傷事件を起こして死んでやろうという思考に結び付く。渡邊元被告は、その予備軍が社会にたくさんいる現実に目を向けるべきだと法廷で語ったのだった。

 昨年6月、新幹線で起きた無差別殺傷事件の時にも、私はそういう話を書いて、これも時代を反映した事件だとヤフーニュースで指摘した。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20180616-00086575/

 考えてみれば最も怖ろしいのは、こうした事件がまだ1年も経っていないのに社会から忘れられていることだ。事件当初のみマスコミは大々的に報道するが、あっという間に忘れ去り、事件が風化していく。事件や出来事の消費のペースが限りなく早くなっているのだ。結果的に社会の側に何の対応もなされず、予防のための措置も講じられない。大事件の場合はその後、1年目と2年目といった節目にのみ報道するのだが、こういう節目報道もセレモニー化している感が否めない。

 そうした事件報道のあり方と、精神鑑定の結果が出たとたんにパタッと報道そのものをやめてしまうという対応は明らかに通底している。

 正月の原宿事件の展開を見ていると、またこの事件も封印されてしまうのかと何となく憂鬱な気分にならざるをえないのだ。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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