大坂の陣の開戦に伴い、米などの物価が高騰。意外にも難局を切り抜けた豊臣方の事情
ウクライナとロシアの戦争によって、世界中で物価の高騰が問題となったが、いまだに終息の気配が見えない。慶長19年(1614)の大坂冬の陣でも同じことで、戦争が始まりそうになると、一気に物価が高騰した。その辺りを紹介しておこう。
慶長19年(1614)、豊臣方と徳川方の決戦が迫る中で、庶民生活は大きな打撃を受けることとなった。その理由は、両陣営が兵糧米を徴収したので、米価が高騰したためである。この点について、諸史料から状況を確認することにしよう。
大坂の陣が近づくと、諸国から大坂へ運ばれた米は、豊臣方が籠城する際の兵糧米として買い占められたという(『山本日記』)。米の値段は世間の相場からすれば、米1石(約180キログラム)は17~18匁だったが、すっかり高騰して130匁に上昇した(『長沢聞書』)。
平時と比較すると、約7~8倍程度に上昇したので、とても信じがたいような値上がり幅だった。戦争が近づくという事態にあって、両軍ともに米を買い占めようとしたので、一気に米価が高騰したのである。
米価の高騰は、庶民の生活に大きな打撃を与えた。この頃、京都だけでなく各地で大雨や洪水が発生し、飢饉になっていた。そのような事情もあり、米の収穫は十分ではなく、米価は2升(約3.6キログラム)で2匁という高値になっていた。
そこで、庶民は腹を満たすため、米糠の糂(こながき)を口にしていたという(『土御門泰重卿記』)。糂とは米の粉をお湯で煮た、お粥のような食べものだった。しかし、この場合の糂は米の粉でなく、背に腹は代えられなかったので、捨てる部分の米糠を煮て食べていたのである。
たび重なる物価の高騰は、東北各地でも大問題になっていた。戦闘に用いられる馬は東北の名産だったが、価格が著しく上昇した。砂金や米穀の価格も高騰したといわれている(『祐清私記』)。
馬はランクが高いものよりも低いほうが人気があったが、その理由は数を確保する必要があったからだろう。両軍とも10万以上の将兵が全国から大坂に集まっていたので、武器や兵糧などは奪い合いのような状況になり、社会や庶民生活に大きな混乱をもたらしたのである。
いざ戦いがはじまると、徳川方、豊臣方とも兵糧米の確保に悩まされることになった。徳川方に与した大名のなかには、戦費調達の負担に耐えかね、悲鳴をあげることすらあった。
たとえば、吉川広家は国元に書状を送り、米価の高騰ぶりに悲鳴をあげていたことが判明する(『吉川家文書』)。それは、大坂城内に籠った人々(町人、百姓など)も同じことで、あまりに米価が上昇したので困り果てていた。
戦闘がはじまると、見かねた家康が兵糧を支給したほどである。一方で、豊臣方は籠城していたこともあり、兵糧の補給路が厳しくなったので、少しばかり法外な値段でも購入せざるを得ないところまで追い詰められたのである。
とはいえ、豊臣方は秀吉時代の豊富な金銀を蓄えていたので、意外にも難局を切り抜けたのである。翌年、大坂城が落城すると、焼け跡から大量の金銀が発見されたのは、有名な話である。