【6・23】を忘れるな!74年目の沖縄慰霊の日
今年も6月23日がやってくる。日本本土で唯一、壮絶な日・米の地上戦を経験した沖縄終戦の日(沖縄慰霊の日)である。
新聞、ラジオは兎も角、本土メディアにおける「6月23日」の取り上げはハッキリ言って鈍いとしか言いようがない。終戦の日と言えば、日本政府がポツダム宣言受諾を連合国に通知し、それを国民向けに発表した(1945年)8月15日が主(降伏文章調印は9月2日・戦艦ミズーリ号艦上)で、「6月23日」の扱いはきわめて低調である。
6月23日は、太平洋戦争における沖縄守備隊「第32軍(牛島満中将)」が玉砕し、沖縄本島での日本軍の組織的抵抗が終わった日を意味する。戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、今次74年目を迎える「6月23日」は繰り返し、繰り返し、私たちが振り返らなければならない節目だ。
1】「沖縄捨て石論」は是か非か
軍民あわせて15万人とも20万人とも言われる沖縄戦の犠牲者とその経緯については、その詳細は日米双方の膨大な数の証言記録や類書が刊行されているのでそちらに譲ることとする。が、従来言われてきた「本土決戦のために沖縄は見殺し(捨て石)にされた論」については、戦後、永い時間がたっても、少なくとも日本側には明確な統一見解は出されていないと筆者は感じる。
果たして沖縄は、「本土決戦のための捨て石」だったのか、否か?
答えはYESであり、そしてNOでもある。これは一体どいうことなのだろうか?私たちは、常に歴史を後から振り返っている。戦後に生まれ、戦後を生きる私たちからすると、「本土決戦」の叫び声の元に、その前衛として沖縄は米軍の猛攻の前に「時間稼ぎ」として見捨てられた、という価値観が一時期頒布した。
実際、沖縄は壮絶な地上戦に巻き込まれ、他方「本土決戦」「一億玉砕」を叫んだ本土は、本土決戦を実行する以前に降伏し、地上戦をまったく経験していない。戦後から振り返り、客観的に「あの戦争」を俯瞰すると、沖縄戦は「本土決戦」の時間稼ぎであり、あたかも沖縄は中央に見捨てられたも同然と映る。これは当然の感覚だ。
しかし、その解釈は私たちが沖縄戦の凄惨な経緯を「後から」知っているからこそ生まれた観念であり、当時の切迫した状況を鑑みると、必ずしも「沖縄捨て石論」は正しいとは言えないのである。
2】「台湾」か「沖縄」か
じつは米軍は、レイテ沖海戦(1944年10月)に続くフィリピン奪還(1944年10月~)以降、日本本土進攻(日本降伏の方法)を巡って以下の2案が対立していた。1案はフィリピンを奪還した余勢を買って台湾に上陸し、該地を占領する。そして当時連合国からの脱落が常に心配されていた中国国民党(蒋介石)を支援するために、台湾から広州・上海方面に侵攻するA案(上図)。
そしてもう一方は、台湾進攻はリスクが高いとして、フィリピン攻略からそのまま沖縄を占領。沖縄を占領した後はそこを拠点として日本本土への上陸や空襲のために生かすというB案(上図)の二つであった。
実際、実行されたのは沖縄攻略~日本本土進攻のB案であったが、歴史にIFがあれば、沖縄での地上戦ではなく、台湾が地上戦の舞台として凄惨な戦場になっていた可能性は否定できない。
当時、大本営は当然のこと、米軍の日本本土侵攻を危惧し、台湾と沖縄の二か所における防備を固める方針を取った。私たちは戦後から歴史を見ているので、沖縄に米軍が殺到したことを知っているが、当時の日本軍中枢(大本営)は、米軍が台湾と沖縄のどちらに侵攻するのか、判別がつかなかった。
そのために大本営は、面積の広い台湾防衛が手薄に過ぎると考え、沖縄に駐屯していた精鋭の第9師団(原守陸軍中将)を急遽、沖縄から台湾に転出(移動)させたのである。
これは日本軍中枢(大本営)が、沖縄を見捨てたのではなく、この時点で米軍が台湾に攻めるのか、沖縄に攻めるのかの判断がつかなかったことに尽きる。
実際米軍は、台湾進攻~広州ルートを採るA案を早々に放棄し、沖縄占領~日本本土進攻を採るB案を選択していたが、沖縄侵攻を日本側に悟られないよう、チェスター・ニミッツ率いる空母機動艦隊を以て台湾南部等に欺瞞(ぎまん)空襲を仕掛けるなど、徹底した欺罔(ぎもう/敵をかく乱させること)を行って大本営の判断を狂わせることに成功したのだった。
米軍の侵攻目標が最初から沖縄だとわかっていれば、大本営は沖縄防衛に対し集中的にリソースを割いていただろう。だがそれは、私たちが歴史の結果を「後から」知っているから言えることであり、当時は「台湾か沖縄か」という二択、どちらに防御の資源を割いたらよいのかに、大本営は苦しめられていたのである。
3】精鋭『第9師団』の不在がアダに
米軍が台湾に侵攻することを想定して、沖縄から引き抜かれた陸軍第9師団は、上海事変や南京攻略戦(1937年~)に投入され目覚ましい戦果を挙げた歴戦の精鋭部隊として知られていた。結果としてこの第9師団が沖縄から不在になったことで、沖縄戦は民間人を巻き込む凄絶なものになる。
大本営は、沖縄から台湾に移動した第9師団の穴埋めとして、姫路の師団を沖縄に移動させることを想定したが、輸送事情の悪化等に伴い、この構想は実現しなかった。つまり沖縄戦とは、精鋭・最強の第9師団を抜きにして行われた沖縄残存部隊(約11万人)と後続部隊を含めると50万人にも及ぶ米軍との戦いであった。
第9師団の不在により、沖縄では根本的に築城、陣地構築、その他に伴う人員が絶対的に不足した。そこで沖縄守備を統帥する第32軍(牛島満中将)は、沖縄の民間人にも軍への協力を求めることを強要した。のちに悲劇の代名詞として有名となる「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」が軍の要請で結成されたのはこれが所以である。
本来、沖縄を守るはずの第32軍という正規軍のほかに、少年・少女を含む民間人が動員されたのは、米軍の侵攻目標が「台湾か、沖縄か、どちらか判然としない」という、二方面守備の結果がもたらした苦渋の結末と言える。
しかしこの結果、事実として沖縄守備隊(第32軍)が、沖縄南部の首里を拠点としてなるべく米軍の出血を目指すことを、中央の大本営から指示されたのは事実である。これを以てして、「沖縄は本土決戦の捨て石であった」か否かは、当然YESであり、そして一方ではNOとも言えるのだ。
沖縄守備隊(第32軍)の司令部で、唯一戦後も生き残った八原博通(やはらひろみち)高級参謀は、戦後の述懐として以下のようなニュアンスを語っている。
「単純に我々(日本軍)の長期生存を考えると、第32軍の司令部は首里ではなく国頭等、沖縄北部に置けばゲリラ戦ができた。我々がそうしなかったのは、沖縄中南部が占領され、アメリカ軍に日本本土進攻の拠点となる港湾や飛行場を確保されまいとして奮戦したからである。よって第32軍は、生き残ることを考えたのではなく、1日でも米軍の日本本土進攻を先延ばしにすること。それを優先した」
これを踏まえると、「沖縄は本土決戦の捨て石であった」は、やはりYESであり、そしてNOとも言えるのだ。沖縄慰霊の日、74年目を踏まえて客観的な戦史の振り返りがいまこそ必要であろう。
*参考文献『沖縄決戦』(八原博通著、中央公論新社)