イチローは「経験と技術の伝承のため監督になるべき」か?
野球殿堂入りを果たしている元名選手・名監督で評論家の広岡達朗氏が、自身のコラムで「イチローはこれから指導者になるべし」との自論を展開している。いくつか挙げているその理由には大いに頷かされる部分が多いのだが、そもそも「指導者の定義と役割」に関する考えが「オールドスクール」的で興味深い。
イチローは、引退試合となった3月21日のMLB開幕第2戦後の記者会見で今後の進路を質問され、「監督は絶対無理、人望がない」と語った。
しかし、広岡氏は、仮に現時点ではイチローが監督に求められる資質の一部を備えていないとしても、それはこれから研鑽を積み身につけていけば良い、としている。
また、自身が師事する人生哲学者の「人間は誰でも、この世の進化と向上とを実現するために生まれてきたのだ」との考えも引用している。このあたりは、大いに共感できる。
しかし、「第2の人生で、これまで誰もできなかった経験と技術を、指導者として後輩たちに伝えてほしい」となると、ちょっと困惑してしまう。ここでは氏は「指導者」という表現を用いているが、文脈からするとそれは「監督」を意味していると思われるからだ。
別に「経験や技術を後輩たちに伝える必要はない」と言いたいのではない。それはコーチやインストラクターの役割だ。氏がイチローに望むのは監督就任なのか良きコーチになることなのだろうか。
監督の役割というものは、究極的には与えられた戦力で結果を出すことであって、技術指導ではない。結果的に選手が薫陶を受け成長を遂げることはあるだろうが、それを目的とするポストではない。
技術を教えるのは主として二軍のコーチであり、一軍のコーチは担当の領域において各選手の状況を把握し監督にレポートすることではないか。そして、監督はフロントから与えられた戦力とコーチからの情報を駆使して勝負に於いて最大限の結果を出すことが役割だと思う。文字通り、「マネージャー」なのだ。広岡氏は、この辺りがごっちゃになりがちで結果的に役割と権限、責任が極めて曖昧な昭和の日本的組織の思想から抜け出ていないと思う。
したがって、イチローが類まれな能力と実績を誇っているからと言って、それがダイレクトに「監督になるべき」とはならないと思う。個人的には、イチローは「自分で成し遂げる」タイプであり、「人を使って結果を出す」のは必ずしも最も得手とする分野ではないようにも思える。彼が持つ最大の監督としての資質はその影響力かな、と思う。